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第973回 株式会社和楽 代表取締役社長 高橋文雄氏
update 24/02/13
株式会社和楽
高橋文雄氏
株式会社和楽 代表取締役社長 高橋文雄氏
生年月日 1962年4月17日
プロフィール 21歳、父親が銀行から1000万円の融資を受け、長男の高橋氏の口座に振り込み、高橋家の姉弟4人の飲食事業がスタートする。のちに父親の店を改装し、本格的に弁当事業をスタート。現在、給食事業や、食堂の委託事業を行う一方、主軸である2つの工場では日に3万食以のお弁当製造している。
主な品目 「日替給食弁当」「日替ワンウエイ弁当」「会議用幕ノ内弁当」他
企業HP https://waraku.net/

食堂と高橋少年。

ホームページをひらくと、1枚のモノクロ写真が現れる。食堂の前で、おかみさんらしき女性といっしょに映っている少年が、今回、ご登場いただいた株式会社和楽 代表取締役社長 高橋文雄さん。むろん、おかみさんらしき女性は、高橋さんのお母様。
「親父はもともと多摩川のちかくに倉庫を借りてちり紙交換をして、結構、うまくいっていたんですね。食堂をオープンしたのは、母親が食堂をしたいと言い出したからのようです」。
創業店は、江川町(浮島通り)にオープンした「わらく食堂」。
「わらく食堂の言い出しっぺは母親ですが、どこで仕入れてきたのか、味をつくったのは親父です。ごはんがススム、甘辛で、絶妙な味つけでした」。
オープンしてから、連日、大盛況、
「それこそ、昭和のイメージ通り、ビールケースを椅子がわりにしてね。店の外にもお客さんがあふれて。ぼくら子どもが学校から帰ると山積みになった皿が、『さぁ、キミたち洗いなさい』って感じで待っているんです(笑)」。
<子どもも、戦力だったんですね?>
「そうです。姉弟は4人で、長男のぼくは小学3年のときから焼鳥を焼いて売っていました(笑)」。
小学校6年生で170センチメートル以上あった。「でもね、体重は60キロ程度、ガリガリで、ひょろひょろだった」と笑う。
昭和のど真ん中。経済成長期。街は、はたらく人であふれていた。「わらく食堂」は、そうした人の、もう一つの食卓だったにちがいない。

振り込まれた1000万円の事業資金。

「ぼくが中学ときですね、親父が支店をつくって、『つくったからこっちも手伝え』と。それで高校になってからは『学校へ行きながらやれ』と。父からすれば、ぼくらにさせた予行演習だったんでしょうね。もちろん、NOとはいえません。ぼくは中学からバスケットボールをしていたんですが、部活が終わって、帰宅して、18時から深夜の1時くらいまで毎日休まずに仕事をしていました」。
「ぼくが21歳のときに、親父に横浜銀行に連れていかれて、『いまから文雄の口座に1000万円入れるから、お前が片方の店を経営しろ』って。くれたわけじゃないですよ。横浜銀行から勝手に借入られたわけです(笑)」。
<もちろん、NOはない?>
「親父に対して、NOはなかったですね。最初にやっていたお店は4人がけのテーブルが4つ、カウンターが5人の、約20人入れる程度の焼肉店でした。もともと焼肉からスタートするんですが、だんだんなんでもありになって(笑)。中華も、カツ丼もある。料理は親父の真似で、教わったことはありません。だからでしょうね。初めてつくったカツ丼の評価は、『味がしねぇ』でした(笑)」。
「その時は、ひきつったが、いまではいい思い出」と笑う。
「いまの弁当事業のきっかけは、食べに来ていただいていたお客さんから、『焼肉が旨かったから、弁当をつくってくれ。500円で買うから』っていわれたこと。これが、始まりですね。ドックに船が入るときには、大商いになり、朝・昼・晩に100食以上持ってきてくれと」。
1000食のオーダーを受けたこともあるそうだ。いまの奥様がサポートに来て、つぶやく。「こんな狭いところでやってたんだ!?」って言って、友達を引き連れて手伝ってくれた。
いただいたチャンスはにがさない。それが、身上。

弁当事業、本格スタート。

「本店は、ぼくが中学になる頃までが最盛期でした。高校の頃になると競合店もできだして業績は落ち込んでいました。親父も歳だったし、立て直す気力もなかったんでしょうね。ぼくらがやっていたお店とチェンジしようとなって。小学3年生から、焼鳥を焼いていた店に姉弟4人でもどります」。
「もう古くなっていましたから、自分たちでお店をこわして、お弁当をつくれるように改造しました。これが、今の和楽の本格的なスタートです」。
ホームページには「連日行列ができる定食屋の味を小箱に詰めておとどけする。そんな事業が始まりました」とある。
ちなみに、高橋さんは簿記の資格を取得している。だから、1000万円を借り入れた時には返済をどうするか。「数字がみえるからこそ、たいへんな思いをした」と言っている。そこからスタートした高橋さんの事業は、新たなステージに入る。
「業界のドンがいるんです」と話してくれたのは、弁当業界のドンの話。「この人がいなければ、いまはありません」。27歳の時の強烈な出会いがあった。
TVの向こうで話をされているその人をみて、憧れ、実際にお会いして、猛烈なオーラを感じたそうだ。その人は、光グループの総帥神崎会長。すでにお亡くなりになっている。

3万人以上の幸せづくり。

「神崎会長の下に、あつまればすぐに勉強会になるんです。地方へ行き全国の弁当勉強会では温泉ホテル等に行くこともある。宴会場で、さわぐんじゃなく、みんなで弁当の話をする。温泉に来て、温泉につからずに、明け方まで弁当の話、それもスーツにネクタイ姿で(笑)」。 スペインやイタリア、ハワイやバンコク等色々な国へも行った。サグラダ・ファミリアの前でも、サンセットクルーズ中でもいつでもどこでも経営の話になった。「商売の根っ子はみんな神崎会長から教えていただきました」。
「コロナ禍になってからも、いっしょにヨーロッパ等に行った経営者たちと集まるといつも会長の話、今、神崎会長がいたら、どう舵をとるのかと、そんな話になるんです。それだけ、ぼくらにすれば偉大な師匠でした」。
師匠の指導受け、和楽の事業は拡大をつづけた。どんどん人が集まり、良い仲間達との出会いが個人経営から企業へと成長していく。
姉弟4人で始めた小さな店と比較すれば、いまやスケールがまったくちがっている。
弁当づくりは、深夜からスタートする。「調理は深夜12時〜5時くらいまで。早朝5時〜8時過ぎまで盛り付けをして、配達。当社では、配達まで自社で行っています」。 コロナ禍では、売上が1/3に落ち込んだそう。「現在は、本社の第一工場で1万5000食、千葉第二工場では1万7000食です。本社工場だけで2万5000食をつくっていた頃と比較すると、まだまだですが、順調に回復してきたと言えそうです」。
弁当事業だけでなく大学や企業の食堂事業も手掛けている。「おいしい」の声であふれた「わらく食堂」。その系譜を受け継いだ、和楽。小さなお弁当一つひとつに込められた思いは、社員食堂をはじめ、様々なテーブルで、時には公園のベンチで、笑顔の華を咲かせているにちがいない。

思い出のアルバム
思い出のアルバム 思い出のアルバム 思い出のアルバム
小学1〜2年生。
わらく食堂の前で産んでくれた母親と
ダンボールの前で
姉と記念写真
小学生6年生。
すでに身長175センチ
思い出のアルバム 思い出のアルバム 思い出のアルバム
30歳
当時の弊社の石戸常務と
木造建ての工場二階で
定期ミィーティング
毎年の忘年懇親パーティー
都内ホテルにて
思い出のアルバム 思い出のアルバム 思い出のアルバム
幹部懇親会
会社を支えるメンバー達
幹部と海外へ
仕入れ調達へ
共に日々勉強日々改善
日々前進日々成長する仲間と
 

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