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第965回 株式会社吉祥吉ホールディングス 代表取締役会長 CEO 赤木清美氏
update 23/12/19
株式会社吉祥吉ホールディングス
赤木清美氏
株式会社吉祥吉ホールディングス 代表取締役会長 CEO 赤木清美氏
生年月日 1961年2月9日
プロフィール 山口県の漁村に生まれる。高校を卒業し、奈良県へ。職を転々として、住まいも転々とする。転職回数12回、引っ越し回数21回。現在の神戸牛をメインにした飲食事業は、メディアの問い合わせがきっかけ。訪日外国人を中心にした集客戦略で、贅を尽くした鉄板焼きから、お祭り気分で楽しくなる屋台スタイルまで、京都、神戸、大阪、東京に様々なスタイルの飲食店を展開している。
主な業態 「吉祥吉」「KOBE BEEF 5STAR」「神戸牛 黒澤」「神戸牛 源吉」他
企業HP https://www.koubegyuu.com/

丑年、サーロイン、肉の三拍子。

今回ご登場いただいた赤木会長は、1961年2月9日に生まれる。
「1961年は丑(うし)年。昭和に直すと36年でサーロイン。それでね。私が生まれたのが2月9日やから、肉(29)」。
<丑年、サーロイン、肉の三拍子ですね?>
「そうなんですよ。でも、漁師の子やしね。最初は肉やなくて魚です(笑)」。
赤木会長が生まれたのは、山口県の漁村。
「萩の隣町です。きょうだいは多いよ。姉と兄が2人ずつで、私が末っ子。兄たちは、やんちゃやったけど、姉も、みんな末っ子の私を可愛がってくれました」。
「王子だった」という。
実は、赤木会長には2人の母がいる。
「きょうだいの実父と私の実母が早くに亡くなったので、私を育ててくれたのは実父と育ての親となる母。実母の妹と、私の実父はきょうだいから見たら父の弟にあたります」。
赤木会長を、父はあたたかく見守り、母は励まし続けた。
「今、私がいるのは、父はもちろんですが、やっぱり母のおかげです」。
たっぷりの愛情が、赤木会長を育てていく。そして、王子は、王子のまま大きくなっていく。

カッター部、キャプテン。

「まぁ、やんちゃでしたね。夏は浜で、冬は田んぼで野球ばっかりしとった気がしますね。ちっちゃかったけど、やんちゃなぶん、運動神経はいい。母はそれが自慢やったみたいですね。母が喜んでくれるのが嬉しくて、運動会ではいつもいちばんでした」。
校庭をトップで走る王子は、兄姉にとっても自慢だったに違いない。
「高校は水産高校の漁業科に進みます。萩ですからね。漁のなかでもフグが盛んです。だから、高校に漁業科もあるんですが、生徒は漁業科だからではなく、やんちゃでバカばっかり。私もアホでしたが、上には上がいるもんです(笑)」。
野球部ではなく、カッター部に入部する。
「最初は好きな野球にしようと思っとったんですが、グランドに行ったらバカでかい奴ばっかりで。これはいかんと思って、カッター競技に鞍替えです」。
<カッター競技?>
「カッターっていうのは手漕ぎのボート競技です。漕ぎ手は12人。艇長と掛け声の艇指揮の合計14人で漕いでタイムを競います」。
調べてみると「大切なのは14人の息をぴったりと合わせること。つらい練習も全員で乗り越えることで、結束力を高める」とあった。
「部員は30人ほどいて、私はキャプテンでした。きつい練習はさせていたんですが、どういうわけか結果がでない。1キロのレースやのに、練習では何キロも漕がすからあかんかったとわかったのは卒業してからです」。
沖の向こうに行くと、教師の目も届かなかった。だから、漕いだ。一服するのは海のどまんなか。

転職回数、12回。引っ越し回数、21回。

「海は、ちっちゃい頃から私のフィールドです。進路はもちろん漁師です。兄たちは漁師になって3年で家も建てていました。でも、私が卒業する頃には、漁もだんだん下火になってきて。兄たちから漁師はやめておけって諭されます。といっても、漁師以外なんになる?ってなるわけです。兄たちも答えなんかもっちゃいない(笑)」。
<どうされたんですか? 漁師の、それ以外は>
「漁村にいたら、漁師しかないですね。だから、町を離れて、奈良に行きます」。
<奈良ですか?>
「ある人と知り合ったのが縁で、奈良県の中央市場の魚屋に就職して、寮で暮らします。朝3時出勤、朝は早いですが、昼には仕事終了です。あの頃は、やんちゃの延長線上にいましたからね。奈良の弱小暴走族のヘッドになって。寮にもメンバーらが来るようになって、さすがに迷惑をかけちゃいけないと思って、12月の末に退職します。アルバイトを経て、京都王将に転職するんですが、こちらも4ヵ月で退職」。
転職回数は12回だと、赤木会長は、なぜか自慢げにいう。
「魚屋もやったし、八百屋もやった。佐川急便も5年くらいやっています。佐川急便を辞めたのは28歳の頃かな。もう子どももいました」。
その後、フルコミッションの営業に転職。広島、仙台、札幌を転々とする。
「転職は12回だけど、引っ越しは21回」とこちらを笑わせる。

DDIセルラーで、広島、仙台、札幌と転々とする。

「佐川急便さんでの仕事は朝5時から夜7〜8時まで続きます。今流にいうとブラック中のブラックですが、当時は、佐川急便以外でも長時間労働っていうのがけっこうあったように思います。佐川急便の場合は、かわりに初任給が45万円で、その後は天井知らずです。なかでも私の給料はトップクラスになっていきます」。
やんちゃだったが、仕事はマジメ。手も抜かない。
「給料はいいんですが、まったく貯蓄しない。だから佐川急便を辞めて、フルコミの営業に転職した時には、妻をさすがに不安にさせてしまいました」。
<どういうことですか?>
「当時、私がいたのは広島です。広島の佐川急便で5年勤めて、今度はDDIセルラー(auの前身)の営業を始めます。こちらがフルコミッションです。28歳で、妻も子どももいました。営業は初めてでしたが、携帯電話が登場した頃だからブルーオーシャンです。ただ、佐川急便のノリで、『ハンコください』ってやっていましたから、そりゃだれもハンコをくれません(笑)」。
2週間、成約ゼロ。奥様に心配をかけまいと、金策に奔走した。
「あの時は、けっこうきつかったですね。ただ、女神といえる人が現れるんです。友達の知り合いの保険の外交員さんです。DDIセルラーの話をすると面白そうだっていうんですね。でも、『だれも買ってくれない』と弱音を吐くと『ついてらっしゃい』と言って、彼女のお客様先に言って、なんとDDIセルラーの営業をやってみせてくれるんです。そりゃ、目からうろこです」。
ハンコをくれではうまくいかないとわかり、赤木会長なりに工夫もしたという。「ただ、今度はトークが長かった(笑)。彼女は要点だけをパッパッと。すると、『わかった』って。おいおい、これでいいんかって感じです(笑)」。
<真似る?>
「そうなんです。するとバンバンとハンコをいただけるようになって、広島のマーケットはだいたい征服して、今度は仙台にいきます。仙台もだいたいカバーすると、今度は札幌です。こちらで知り合った人と、会社も立ち上げています」。
「ただ」、と赤木会長。
「札幌でも100%近いシェアを獲るんですが、大阪に比べると全然。マーケット自体が1/10程度です。だから、200万円の資金をもって、単身大阪に乗り込みます」。
エネルギッシュだ。「乗り込む」が、「カチ込む」にも聞こえなくない。

神戸牛で、東京進出。

<大阪ということは、だんだん神戸牛に近づいてきましたね?>
「大阪まで来ましたからね(笑)。ただ、最初はセルラーです。業績は悪くありませんでした。基本的に波に乗るのがうまいんです。神戸牛との出会いは、あるメディアから『神戸牛を扱っているか』って問い合わせがあった時に、かっこつけて『扱ってます』って答えてしまったのがきっかけ。その時には、海鮮料理店を経営していたんです」。
<言われたら断れない性格だそうですね?>
「いや、正確には、ええかっこしいなんでしょうね。実はセリに行って神戸牛を買うんですが、払えるお金があるわけありません。でも、かっこつけて。あとで金策に走り回るんです」。
<神戸、大阪で話題になり、昨年は東京にも進出されました>
「去年の7月に日本橋と芝大門にオープンしました。オープンして『なんでや』って唸ります」。
<なんでや?>
「今の仕事をはじめて、それなりに苦労はしましたが、関西でもまぁまぁ評価をいただいて、初めて東京に乗り込んできたわけです」。
赤木会長にいわせれば、「ゴルフのツアーでいける」と確信したそうだ。
「山梨で女子のゴルフツアーが開催された時に、うちも出店するんです。それまで関西では外国人客がメインだったんですが、やっぱり東京はちがうなって。日本人が次々とオーダーしてくれるんです。神戸牛いうたら日本最高峰です。ブランディングもできている。でも、高価ということもあって客受けでいうとインバウンドが中心。でも、東京なら日本人相手でもいけると思ってしまったんですね」。
「もうアホですよね。紹介をいただいたということもあったんですが、いきなり東京のど真ん中。日本橋と芝大門。芝大門は閉めましたが、日本橋はまだ残しています。今、スタッフもそろって、これからってところですね」。
アホだと言ったのは、正直な思いだったかもしれないが、当然、それくらいで赤木会長は下を向かない。むしろ、「日本橋と芝大門がだめだったから、今がある」という。

浅草で、大ブレイク。

<ブレイクしたのは、浅草ですよね?>
「アルバイトをしていた子が浅草にカフェを出した時にサポートに行って、初めて浅草をみて、これだって(笑)。さっそく物件を探して、オーナーを口説きまくって出店させてもらいます。都市ガスもなかったから、関西からプロパンをもってきて。換気扇もちっこいの一つです。オーナーも最初は半信半疑だったでしょうね。知らないのがいきなりきて、大丈夫、大丈夫っていってもね。でも、オーナーさんも初月で目を回したんやないかな。4000人来ましたから」。
4000人と驚くと、まぁまぁ売れたんとちがいますか? と冷静にいう。勢いだけの大丈夫ではなく、赤木会長のなかでは計算ができていたんだろうか。
それにしても、漁師希望からの変身が凄まじすぎる。魚は肉に。海の荒波は、人の荒波にかわっている。ただ、赤木という人はまるでかわっていない気がする。
海とたたかい、つちかった度胸と才覚は、いまも赤木会長の背骨となっている。もう一つ、母の愛も。「母には、何歳になっても、かなわないなって思いますね。だって、あれだけ無条件に人を愛せる人はいないから」。
現在、渋谷と日比谷に出店の予定があり、来年には東京エリアで15店舗を出店するという。京都、神戸、大阪、そして東京。東京が狭くなった時、ひょっとすれば赤木会長は、神戸牛といっしょに海の向こうにいるかもしれない。

思い出のアルバム
 

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