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第353回 株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏
update 13/03/19
株式会社フードゲート
内山九十九氏
株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏
生年月日 1961年5月15日生まれ
プロフィール 静岡県出身。大学卒業後、大手水産商社に就職。28歳で退職し、「小僧寿し」へ。仕入れからマーケティングまで任されるが、41歳で独立を決意。偶然出会った「かぶら屋」に一目惚れし、現会長、菅野克弘氏と共同で株式会社フードゲートを設立。これが2006年2月のこと。そして、7年後の2013年2月現在、店舗数はFC・グループ全店で54店舗を数える。
主な業態 「かぶら屋」
企業HP http://www.foodgate.co.jp/

姉3人、末っ子で長男。

1961年5月15日、静岡県に生まれる。4人兄弟の末っ子だが、上は全員姉妹で男子は内山1人だった。内山の父は躾に厳しく、男尊女卑の昔ながらタイプの人だった。
夕食は、父の厳命で6時に家族全員揃って取った。食事も風呂も長男の内山が優先。父のいないところで、姉たちから批判されたことはいうまでもない。
それはともかく、内山が中学に上がる頃まで「年に数回、家族旅行に出かけた」というのだから円満な家庭だったに違いない。
「父は、水産大学を出て水産物の市場を経営していました。だから、朝が早く子どもたちより寝るのが早いんです。せっかく旅行に行っても、翌朝が早いからとんぼ返り。そんな感じだったと思います(笑)」。
内山は、水泳に、野球、サッカー、剣道、どれをさせても飛び抜けて巧い少年だった。中学2年から部に入り本格的に野球を始めるのだが、スグにレギュラーに選ばれ、同級生からはひんしゅくをかったそうだ。

100人規模の大ゲンカ。

成績は悪いほうではなかった。だが、中学2年生頃から悪友とも付き合い始めた。ケンカもした。正義感が強く、不遜な言動が許せなかったからだ。
「当時は暴走族とかが全盛期だったんです。だから、集団というのがあって、ある時などへんな噂が流れて100人規模のケンカに発展したことがあります。私は一方の首謀者とみられていました」。
素行もけっして良くはなかったが、それでも県内で言えば、真ん中よりやや上の高校に進んだ。だが、進学しても校内に内山の姿はあまりなかった。

みんなの下へ1人自転車で向かった。「京都へ」。

中学1年で剣道部は辞めたが、道場には高校1年まで通いつづけた。ところが、夏に首を脱臼し、こちらも辞めてしまう。これで、目標らしきものがなくなった。
「麻雀、パチンコが日課だった」と内山は当時をふりかえる。中学時代は素行が問題視され、修学旅行にも連れて行ってもらえなかったそうだ。この時、内山らしいエピソードを残している。
「修学旅行は京都だったんです。私は連れて行ってもらえないというんで、家出のようにして、ふらっと家を飛び出しました。修学旅行の1週間前です」。
目的地は京都。1人自転車を漕いで京都に向かった。先乗りしてやろうという魂胆である。
「途中でトラックの運転手さんに拾われたりして、無事、京都に到着。子どもだからできたんでしょうね。自転車1人旅です。でも、帰りは父に連絡して、新幹線で帰っちゃうんですが(笑)」。この出来事、一つを取り上げて「行動派」というのは先走り過ぎかもしれないが、ともかくエネルギー旺盛な少年だったことはたしかである。

論文だけの試験で合格。晴れて、大学一年生。だが、あいかわらず…。

大学進学時には1年間浪人した。一浪の末、現在の「東京国際大学」に進学するのだが、その大学を選択した理由は、「試験が論文だけだったから」だそうだ。浪人時代も、あいかわらずパチンコやボーリング三昧。大学でも、もちろん遊び呆けた。
以上が大学までの内山である。
たしかに、字面だけ追えば、ふらふらした青年というイメージだが、肝はすわっていた。
100人規模のケンカもそうだし、自転車1人旅もそうである。

朝早い市場の熱気に、人生の眠気まで吹っ飛ばされる。

「私がかわったのは、就職してからです。もともと商社の仕事に憧れていたこともあって、父のコネで築地にある、とある大手水産商社に就職します。グループで1000億円を売り上げていました」。
「私は、28歳になるまでこの会社で仕事をするんですが、水産物ということもあって、とにかく朝が早い。だいたい5時頃から、夜の10時、11時まで仕事をしていました。土・日ももちろん休みじゃない。それでも、不平を言ったことはない。それ以上におもしろかったからです。勉強もできた。大学までは、その日暮しのような生活でしたが、この仕事を始めてようやく人生のスイッチが入った、そんな感じです」。

「小僧寿し」に転職。見えてきた起業の二文字。社長に伝えた一言。

およそ5年間、勤務したのち「小僧寿し」に転職する。「小僧寿し」といえば持ち帰り専門の「寿司店」で当時は、外食企業で最大手の1社だった。1年半、現場ではたらき、仕入れを担当するようになる。のちに自ら手を挙げ、マーケティングも担当した。当時の話を伺った。
「ホタテ一つにしても毎月30トンです。相場を動かすぐらいの量です。購買力がいくらあっても、集めるのには苦労しました。それでも7〜8年は、たのしかったですね。会社にも勢いがありましたから」。
しかし、バブルが崩壊すると、市場もいっぺんする。38歳になって「独立」という絵を描き、社内ベンチャーで実現しようとした。それが、偶然いまの「かぶら屋」とおなじようなビジネスモデルだった。
「外から店内が見えるオープン型スタイルの、小ぶりな居酒屋というイメージですね。実は、この時、事業の計画書を持って社長に直談判したんです。結局、承諾してもらえませんでした。一方、40歳までには取締役になろうとも考えていたんですが、私より一世代上は団塊の世代でいっぱい人がいる。どうも、そちらも無理だなと思っていたもんですから、この時、社長の前で『それなら私は退職して自分でやります』と、その場で退職する旨を伝えたんです」。
社長に伝えた一言。もう、後戻りはできない。

退職の日に、訪れた運命の出会い。

退職の1年前、有給を取り「おでんのテスト販売」を、ある会社にお願いしてさせてもらった。「小僧寿し」で多少の経験はあったが、初めて本格的に行う飲食業である。料理も、むろん素人。その会社の社長との約束では、調理場も貸してもらえるはずだったが、料理職人から相手にしてもらえなかった。それどころか、包丁を使うだけで罵声が飛んできた。「おでん」の売れ行きもさっぱり。
それでも、凹まず仕事をしているうちに、徐々に料理人が声をかけてくれるようになった。「それじゃだめだ」「こうやればいい」とアドバイスまでくれるようになった。
だが、それで「おでん」の売れ行きがアップするほど、商売は甘くない。
心細くもあっただろう。だが、その気持ちを『かぶら屋』との出合いが一蹴した。
「送別会の2次会に、連れて行かれたのが『かぶら屋』だったんです。部下の一人が『内山さんが言っているのは、こういうお店じゃないんですか?』って。わざわざこの店をチョイスしてくれていたんです」。
たしかに思い描いていた業態だった。それにも驚いたが、それ以上にスタッフたちの笑顔に惹かれた。「どうして、こんなにたのしく仕事ができるんだって。その秘密を知りたくて、堪らなくなって」。

共同経営者として、「フードゲート」を設立。

「こう」と思えば行動は早い。さっそく、事業計画書を持って「かぶら屋」の経営者に会いに行った。当時、「小僧寿し」の社長に持参したものとおなじ計画書だ。相手はまだ35歳。年齢は内山より下だったが、内山にとって年齢は関係ない。
まず契約社員として半年、勤務した。そして翌年、実績が認められ、共同経営者として「フードゲート」を設立果たすことになる。
共同経営者はむろん現会長、本体の潟tーデックス社長の菅野 克弘氏のことである。
ところで契約社員となり、血気盛んに現場に乗り込んだ内山だったが、はじめて詳細な数字を知って愕然とした。
「だからと言って、凹んだわけではありません。だめなら自分で起業するぐらいの考えでしたから。でも、スグに改善できるとも思っていました。もっとも、激務がつづき3ヵ月で10キロ痩せてしまいましたけれど」。
現場の作業をこなしていればいい、という仕事ではない。朝早くから、夜遅くまで。40歳を超えた内山が、奮闘した。その姿が周りを動かした。
内山の奮闘とスタッフたちの頑張りで、当時あった2店舗は、半年で両店とも売上は倍増した。40歳を超えてからの飲食デビューで、内山は華々しいスタートを切ったことになる。ところが、そう巧くいくわけがない。

舐めた辛酸。つよくなる心と思い。進化するブランド。

現在、「かぶら屋」は、フランチャイズを含め東京、静岡に32店舗、グループでいえば54店舗の規模となっている。関連会社は3社。グループ本体でラーメンを主要な業態として業態開発部門を担う「株式会社フーデックス」と、上海に本社を置き、中国事業で「東京とんこつラーメン屯ちん」の展開や飲食店コンサルティングなどを行う「上海フーデックス」、台湾でも同じく「東京とんこつラーメン屯ちん」を運営し台湾事業展開を図る「台湾フーデックス」である。
この成長を内山が共同経営者として携わってきたことは言うまでもないが、辛酸を舐めた時期もなくはなかった。1号店、2号店の売上を倍増し、そのいきおいで3号店、4号店を出店した時のことである。
「1つは、立地がぜんぜんダメだったんですが、反対を押し切るように出店。もう一方は誰がみても大丈夫という最高の立地だったんですが、2店舗ともまったく出足から躓いてしまいました」。
11月、1週間の間に立てつづけに出店した。400万円、250万円がそれぞれの店舗の売上予測。しかし、この皮算用は見事にはずれ、実際には200万円と120万円。
「店長までげっそり痩せてしまいましてね。もうどうすればいい、かと。あの時がいちばん苦労しましたし、勉強にもなりました」。
「かぶら屋」が成長するためには、なくてはならない試練だったといまなら言える。だが、渦中にいるときは、評論家のような言葉をいくら並べても意味がない。
「幸い、1号店、2号店が繁盛していましたので、そちらで入りきらないお客様を300mも離れているこちらに案内して。店としての顔づくりがまだまだできていなかったんですね。デザインもだめだった」。
浮かびあがった弱点を克服し、ブラッシュアップすることで、いままで以上のブランドに進化した。たしかにそういう意味ではこの失敗がなければ、いまの「かぶら屋」はなかったかもしれない。
実際、この体験によって、「かぶら屋」は一段と進化し、より強力なブランドに育っていく。内山もまたこの試練を乗り越え強くなった。

今後の展開。

今後の展開も伺った。年間十数店舗ずつ出店を予定している、とのことである。初めから1000店舗を描いてスタートした事業。海外にも積極的に出店する予定で、2010年、上海、台湾にラーメンの店舗出店を果たしている。
「かぶら屋」。そのブランドが、いっそう多くの人たちに試されることになる。内山の話を聞いていると、それがうれしくてならないように感じてしまう。
「自ら、これだと思ったもの」で勝負する。それが最高。そんな心の声も聞こえてきそうだった。

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