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第259回 株式会社柿安本店 代表取締役社長 赤塚保正氏
update 11/12/27
株式会社柿安本店
赤塚保正氏
株式会社柿安本店 代表取締役社長 赤塚保正氏
生年月日 1963年10月10日
プロフィール 三重県桑名市に生まれる。のちに5代目社長となる父は1971年創業の、老舗の名店「柿安本店」の経営の一角を担っていた。「柿安本店」の関東圏進出のため10歳の時に家族全員で上京する。言葉の違い、生活の違いに戸惑いながらも成長し、慶應義塾大学に進学。その後、ニューヨークにある大学に進んだが、叔父にあたる4代目社長に説得され、帰国し、「柿安本店」に就職する。現場から叩き上げ、2006年6代目社長に就任。デパ地下がブームとなり、主力事業の一つである惣菜事業の競争が激化するなか、見事に舵を取り、惣菜事業はもちろんのこと精肉事業、レストラン事業、食品事業、いずれにおいても名店の地位をさらに揺るぎないものにしている。
主な業態 「柿安 しゃぶしゃぶ日本料理」「柿安 料亭しぐれ煮」「柿安 牛めし」「三尺三寸箸」「炭火焼ハンバーグカキヤス」他
企業HP http://www.kakiyasuhonten.co.jp/

父が託された東京進出。

桑名市は愛知県と岐阜県に隣接し、名古屋市のベットタウンとして宅地開発が進んでいる。もっともこれは現在の桑名市で、赤塚が生まれた頃はまだまだ田園風景が残っていたことだろう。赤塚が生まれたのは1963年。東京オリンピックが開催される1年前だ。日本経済が戦後の混乱期を抜け、右肩上がりの成長を開始する頃でもある。
実家は、老舗「柿安本店」を経営する赤塚家の一族。ただ、当時は「柿安本店」も三重県の名店に過ぎなかったようだ。この「柿安本店」の東京進出を託されたのが、当時の社長(4代目)のすぐ下の弟、3代目の次男である赤塚の父だった。銀座にレストランをつくる。赤塚が10歳の時だから1973年の出来事。1973年といえば、万国博覧会開催から3年。ファストフードやファミリーレストランがブームになり始めた時でもある。「柿安本店」の東京進出を成功に導くため、赤塚家4人は新幹線に乗り込んだ。

1店舗の経営者から法人企業の社長へ。母の選択。

東京銀座、赤塚や妹はもちろんのこと父や母にとっても未知なる都会。この地で、事業をスタートさせるため父だけでなく、母もホールに立った。赤塚が小学5年生の時だから、妹はまだ3年生。ある意味、家族全員での戦いが始まった。
「東京に来たら、母も仕事をするようになったので、妹の面倒は私がみなければなりません。母が作り置いた夕食を2人で食べ、当時、こちらの家には風呂がなかったもんですから、銭湯へ私が妹を連れて行きました」。「言葉の違いにはもちろん戸惑いましたが、それ以上に、小学生なのにみんなが塾に通っている。中学受験もする。そんな話に圧倒されました。こちらは田舎もんですから(笑)」。
父と母は懸命に働き、子ども達2人は、戸惑いながらも、新たな暮らしに溶け込んでいく。とはいえ、田舎者というレッテルを赤塚は気にしていたのかもしれない。次のエピソードに、バカにされたくない、という思いがよく表れている。

高級フレンチレストランで流した涙の味。

父と母は、忙しい合間を縫って子ども達をよく外食に誘い出した。一つのエピソードがある。「家族で初めて銀座の高級フレンチレストランに食事に行った時のことです。フランス料理に連れていってあげるからお行儀よくしなさいと言われていたんです。どんな店かと思っていたら、フォークやナイフがやたらテーブルにならんでいる。どうやって食べていいかわからない。食べ方もわからず私はじっと下を向いていたんですが、それとは反対に妹はむしゃむしゃ食べ始めて、『おいしぃ、こんなの初めて』なんて歓声を上げるんです。その妹のハシャギぶりも恥ずかしくなったんでしょうね。泣き出してしまったんです(笑)」。恰好付けだったから、と赤塚はいうが、感性が豊かな証左だろう。負けず嫌いの片鱗も伺える。「でも、あのおかげで、店や食事にはルールがある、それだけのことなんだとわかり、どんな店に行っても物おじしなくなりました。そして、あれから父の食育がはじまったんです」。どんな食育だったのだろうか。

英才教育。

たとえば中学生の時、有名な和食の料亭に父が連れていってくれた。ただの団らんではなく、教育の一環だった。吸い物が出てきた際には、「頭じゃなく舌で覚えろ。薄くてもコクがないとだめなんだ」と教えられ、デザートの時は、出てきたフルーツのゼリーを動かし、「揺れ方の角度をみるように」と教えられた。まだある。高校の時には、「保正、サービス業はお客様のどこをみるかわかるか」と聞かれた。経験のない赤塚にわかるわけがない。答えは肩の角度だという。肩はいちばん早く動く。だから「肩の動きを見逃さないことが大事なんだ」と父はいう。良質なレストランのサービスの鉄則である。「お湯呑の角度についても教わりました。角度さえ見ておけば、お茶がなくなったかどうかがわかるっていうんですね。こういうことを一つひとつ叩き込まれました」。赤塚家流の英才教育だ。ところが、赤塚は「柿安本店」を継げるとも思っていなかったし、正直、継ぐつもりもなかった。だから、父の食育も、将来、役立つ保証はどこにもなかったのである。少なくともこの時点では。

柿安本店に入社。いばらの道の始まり。

慶応大学を卒業して、ニューヨークにある、さる大学に通った。親元を離れ、なし崩し的に米国で仕事をしようという魂胆だった。だが、当時の社長を務めていた伯父(4代目)が、ニューヨークまで足をのばして「次は、おまえしかいない。入るなら早いほうがいい」という。その情熱に負け、赤塚ははじめて「柿安本店」に就職することを決意した。もちろん苦難の道が始まるとは思っていなかったようだが。

母の罵声、厨房に響く。

「最初の2年間は、母がおかみをしていた銀座のお店で接客の見習いです。母は息子といえども店ではきびしく、ある時など従業員全員の前で、厨房まで響き渡るような声で罵声を浴びせられました。息子ということもあったのでしょう。逆に容赦がなかった。この2年間、母から徹底的にサービスの基本を叩き込まれました。次に勤務したのは、三重県にあるミートセンター、肉の加工工場です。うちの会社のなかでももっとも重要なセクションの一つです。当時はまだまだ口の悪い人も多かったので(笑)、こちらでもしょっちゅう怒られました。それどころか、肉も切らせてもらえないんです。ジャマだからといって。だから最初の1年は、包装の仕事しかしていません。それ以外、仕事がなかったんです」。
「1日でだいたい4頭分の肉を解体するんです。朝から晩まで立ちっぱなしです。チームを組んでやるものですから、一人が遅いと周りにも影響がでます。私が触れさせてもらえなかったのはこのためなんです。ひょっとしたらいずれ本社に帰る奴に仕事を教えても意味がないと思われていたのかもしれません。ただ、私もそのまま何もできないで終わるのはイヤだった。だから、工場長にお願いして休日の工場で練習させてもらったんです。一人ですからペースもゆっくりでいい。そして、先輩たちに追いつけたのがちょうど1年後。ようやく作業の仲間に入れてもらえました。いまでも工場に行くと、あの時の話をします。『あの時、叱ってくれたから、いまの私がある』と私はいうんです。彼らは、『いやぁ、あの時は…』なんて話を誤魔化しますが、お世辞でもなんでもなく、創業者一族ということで甘やかされていたらとんでもない勘違いを起こしていたはず。母にも、センターのスタッフたちにもいまでも感謝が尽きません」。

パートさんの一言に涙がこぼれ落ちた。

センターでの修業が終わると、今度は100坪の新店を任された。何もかもが初めてである。「料亭風のレストランでした。立ち上げももちろん初めて。にもかかわらず採用から全部やらないといけなかったんです。昨日まで肉を切っていたのにですよ。でも、開店から1ヵ月は良かったんです。開店景気って奴ですね。ところが、それが過ぎると客足が鈍りました。そのうち、3日連続してお客様が一人もおみえにならなかった時があったんです」。
初日はこういう時にこそと、ミーティングを開いた。2日目もやることがないので、ミーティングをやることになった。3日目。もう、話すこともなくなった。そんな時、パートタイマーの一人が、「店長、私、帰ってもいいよ」とたまりかねたように切り出した。客はいなくても、パートさんの時給は発生する。気をきかせてくれたのだ。その一言に涙が出た。「悔しい」「ありがたい」、二つの思いが何度も交錯する。「なんて情けないんだと、自分を責めました。パートさんたちにまで気を遣わせて申し訳ない。もう、スタッフたちにこんな思いをさせなくて済むように、自分もこんな思いをしなくていいように、店を流行らさなあかん、そう思ったんです」。
それまでの赤塚は、いきなり与えられたポストと仕事に戸惑っていたのかもしれない。何をすればいいのか、わからなかった、という言葉が戸惑いを裏付ける。だが、やるべきことは何をするかではなく、長である赤塚が覚悟を決めることだった。
長の覚悟が決まれば、物事は好転する。赤塚が、長がすべてだと口癖のように言うのは自らの体験が元になっている。売上は順調なペースで上がりはじめ、8ヵ月後には人気店の一つに数えられるようになる。実践したのはすべてのお客様をリピーターにするほどの徹底したサービスだった。このサービスをやり抜くことで、店は軌道に乗り、赤塚は自信をつけ、仕事の本質を理解した。赤塚、30歳の頃の話である。

6代目、社長、就任。

小さな時から食育によって感性を育てられた。サービスの基本も叩き込まれた。自らも現場に出て体験した。しかし、まだまだと父には映った。あるエピソードがある。父がふいにこう尋ねた。「保正、お前いくら給料をもらっているんだ?」。その問いに正確に答えた息子をみて、父は顔をしかめる。
「あとになって母から、父が残念がっていたと聞かされるんです。自分の給料を知っているというのは、まだまだスタッフのことを真剣に考えていないということだから、というんです。自分のサラリーなんか数える暇があったら、少しでもスタッフのことを考えろ、と」。経営というのは、そういうことなのか、と改めて考えさせられた時の話である。同時にトップの役割を教えられた。トップはつねにスタッフたちの上に立っていることを忘れてはならない。自分よりも社員のことを考えなければならないんだと。
これも実は「柿安本店」の社長が代々受け継いできたDNAの一つである。社長は、代々、誰よりもいちばん多く働いている。もちろん寸暇も惜しまず経営について考えている。それだけ厳しいポジションだ。2006年12月、その席に赤塚が就いた。43歳の時である。

柿安という伝統。

話はかわるが、「柿安」とは、店主の名字なんだろうと長い間勘違いしてきた。今回、赤塚に取材させていただいたおかげで、その勘違いに気づいた。「柿安本店」の創業者は赤塚安次郎。もともと果物屋で、柿を主に扱っていたそうだ。その時呼ばれていた「柿の安さん」が、柿安という名前の由来とのこと。それにしても、1871年の牛鍋屋創業から数え、すでに140年。気の遠くなるほどのとてつもない歳月が流れている。
柿安さんと呼ばれた三重の小さな牛鍋屋は、140年後のいま、精肉、惣菜、レストラン、食品と4つの事業を手がける日本を代表する企業の一つになった。
創業者の赤塚安次郎氏の血が見事に受け継がれてきた証明ともいえるはず。父から息子へ、託してきた伝統というバトンは、まだまだ後世に引き継がれていくだろう。トップは誰よりも多く、懸命に働く、そんなDNAと共に。

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