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第258回 ウェンディーズ・ジャパン合同会社 最高経営責任者 アーネストM.比嘉氏
update 11/12/20
ウェンディーズ・ジャパン合同会社
アーネストM.比嘉氏
ウェンディーズ・ジャパン合同会社 最高経営責任者 アーネストM.比嘉氏
生年月日 1952年10月15日
プロフィール 1952年10月15日、ハワイ・ホノルルに生まれる。小学校を卒業するまではスイスで暮らし、中学から日本のアメリカンスクールに通う。ペンシルバニア大学ウォートンスクール で大学生活を送り、今度は米国コロンビア大学の大学院にてMBAを取得。いったん父(が)創業し、兄が継いで経営する)の会社に就職するが、すぐに自ら起業。木材や医療機器の輸入・販売で成功を収めたのちの1985年、「ドミノ・ピザ」を東京・恵比寿にオープン。破竹の勢いで出店を重ねる。宅配システムはもちろん、インターネットでの注文システムの導入でも先駆け、宅配ピザを日本に定着させる。いったん役目を終えたかのようにドミノ・ピザを売却するが、2011年12月27日、今度はUS大手バーガーチェーン「Wendy's®」の再上陸を仕掛ける。
主な業態 「ウェンディーズ」
企業HP http://wendys.co.jp/

「Wendy's®(ウェンディーズ)」 が日本再上陸!

Wendy's®が再上陸する。早くもオープン日を待ち焦がれているファンも多いことだろう。その日は2011年12月27日。表参道に装いも新たに誕生する。今回は、このWendy’s®再上陸の仕掛け人、アーネストM.比嘉にご登場いただいた。

ホノルル生まれの日系3世。

比嘉は1952年、ハワイのホノルル市に生まれる。日系3世だそうだ。1952年といえば終戦からまだ8年。当時の様子はどのようだったのだろうか。
彼の父は事業家で、すでに事業を手広く行っていたらしく1950年代には毎日新聞社と共同でヤンキースなどの大リーグを日本に招へいしたことでも知られている。兄弟は4人。比嘉は末っ子だが、この比嘉を含め、成人すると全員が事業家となる。
ところで、ホノルルで生まれた比嘉だが、小学校を卒業するまではスイスで育ったとのこと。英語はもちろんだが、フランス語が堪能なのはそのせいだろう。中学生になって来日し、中学・高校は東京三鷹のアメリカンスクールに通っている。この時、日本で6年間暮らしたが日本語が話せるようになったのは大学院を出てからだという。アメリカンスクールを卒業した比嘉は、ペンシルバニア大学ウォートンスクールの門を叩いた。
ハワイからスイス、そして、日本、イギリス。国際派が増えたいまでは考えられなくもない経歴だが、比嘉がアメリカンスクールを卒業したのは1970年。日本で初めて万国博覧会が開催された年である。比嘉がアメリカ国籍の日系3世ということを考慮しても、当時ではなかなかできないワールドワイドな体験を積んだといえるだろう。大学を卒業した比嘉は、母国であるアメリカに帰り、コロンビア大学の大学院に進みMBAを取得している。

父とは異なるチームプレイ重視の経営者をめざして。

比嘉に父親のことを尋ねると、ビジネスで最も影響を受けた一人という答えが返ってきた。ただし、偉大な父はワンマンな経営者でもあったそうだ。だから比嘉にとって経営者とはワンマンな人間とイコールだった。
おもしろいエピソードがある。「東京にいた時です。ある世界的な企業の大株主をホテルオークラに迎えにあがったんです。お顔を存知あげなかったことが問題なんですが、それ以上に経営者はワンマンでいかつい人っていう刷り込みがありましたから、父より凄い人なんだから<父よりワンマンでいかつい人>を勝手にイメージしていたんです。ところが、そんな人は約束の時間になっても現れない。ビジネスマンは時間にうるさいのにと首を捻っていたんです。更に15分待っても現れない。その時になってようやく思い込みだったのではないか、と気づき始めるんです。だって、目の前に容姿や風貌が父親とは正反対の男性がずっと座っていたんですから」。
比嘉には笑い話では済まなかった。「経営者は父のようにワンマンなタイプしかなれないと思い込んでいたものですから、父と正反対の性格だった私に企業経営は無理だろうなと思っていたんです。でも、この時、出会った経営者のおかげで初めて私も経営者になれるのではないかと希望が湧いてきたんです」。それまで性格ゆえに抑えていた起業家の血がたぎり始める。この時から父とは異なる<チームプレイ重視の経営者>をめざした比嘉の旅が始まった。

アメリカの魅力的な商品を日本に持ってくる、それが比嘉のビジネスコンセプト。

ところで、大学院を卒業した比嘉はどんな会社に就職したんだろう。「父が創業したファミリー企業を兄が経営していて、そこに就職しました。もともと父は子どもたちのために3つの事業を育てていたんですが、兄弟は4人。末っ子の私までは回ってこなかったんです(笑)。この長兄の下にいたのが3年ぐらい。26歳になって起業しました」。
「最初に手掛けたのは木材の輸入販売です。この当時からアメリカと日本を結ぶのが私の仕事だと思うようになっていたんです。それで、まずカナダの製材メーカーを買収して、向こうの木材をカットして日本の大手プレハブメーカーに販売する、そんな事業を開始しました。30歳前後のことです。その時はバンクバーやシアトル、北欧、イギリスにも提携先を設けました。事業は好調でした。ただ、苦労もありました。アメリカと日本では家に対する考え方から異なっているんです。アメリカはクルマと同じでモデルチェンジすることが前提。日本の場合は代々住むことが前提でしょ。根本の考え方が異なるので、木材に関する考え方も違ってくるんです。寸法も、長さも、品質も違います。アメリカ人はどちらかといえば、強度が高ければいいという合理的な発想なんです。でも日本は、見栄えを重視するんですね。そういう違いを理解したうえで、互いにとって最善の方法をみつけていく。木材一つですが、そういう風に日本とアメリカの橋渡し的なビジネスをやっていたように思います。この後、医療機器の輸入・販売も始めますが、役割としては同じです。アメリカの魅力的な商品を日本に持ってくる、その発想の延長線上でつぎに開始したのが、ドミノ・ピザだったんです」。

ドミノ・ピザの創業者トーマス・S・モナハンとの出会い。

比嘉は、「成功者にはある共通点がある」という。それは、<あきらめない精神><前向きでポジティブな姿勢>だ。昔から父が口にしていた言葉、「Can do」は、それらの言葉の底に流れる希望の力といえるかもしれない。
ドミノ・ピザと比嘉の出会いは、計算されたものではなかった。デトロイト・タイガースをドミノ・ピザという会社が買収した、その話に単純に興味を持ったのがきっかけだった。「父と話をしている時に、ふいにタイガースの話になって。もともと父は大リーグの関係者とネットワークを持っていました。それで、タイガースの元オーナーを知っているから、興味があるなら紹介すると言いだしたんです(1962年)」。
ドミノ・ピザの創業者はトーマス・S・モナハン。ウイキペデアによれば<アメリカのミシガン州イプシランティの学生街にあった「ドミニックズ・ピッツァ」という小さなピザショップを買収した>とある。ドミノ・ピザは現在、アジアやヨーロッパ、オーストラリアなど、世界中で親しまれ、現在55ヶ国に8500店以上に拡大しているそうだ。
さて、タイガースの新オーナーであり、ドミノ・ピザの創業者でもあるトーマス・S・モナハンに会うため、久々に帰国した比嘉は、言葉通り、度肝を抜かれることになる。
「スタジアムにドミノのロゴ入りのヘリコプターで登場するんです。その後、本社に行くと、クラッシックカーが400台(スポーツカーが4台含む)、プリベートジェット3機、豪華客船4槽まで所有しているというんです」。日本人の尺度では考えにくいスケールだ。比嘉がいかに国際派といっても、驚かざるを得なかっただろう。その衝撃が、比嘉をドミノ・ピザの、日本の創業者に仕立てた張本人かもしれない。

1985年、ドミノ・ピザ、日本に初登場。

「30分を超えたら50ドル引き」、ドミノ・ピザは、このシステムを取り入れてヒットしたそうだ。むろん「手作りならではの味を食卓へ届ける」という思想もあった。この2つのコンセプトをいかに日本流にアレンジするか。ここにまず、比嘉は頭をひねった。
「アメリカでは車で配達していたんです。でも、日本の事情を考慮すれば、それはちょっと不効率です。それで、通称<ドミノジャイロ>(ホンダのジャイロに屋根を付けて改造したもの)と呼ばれる三輪バイクが生まれたんです」。
さて、ドミノ・ピザの1号店は、1985年、東京・恵比寿に誕生した。「当初は月商5〜600万円いけばと思っていました。それが蓋をあければ初月から3000万円になったんです。急きょジャイロを5台から30台に増やしました」。坪数20坪弱。それでいて3000万円。立地は決して良くないが、その分、コストも安い。ドミノ・ピザの成長の秘密を比嘉は改めて実感したのではないだろうか。
比嘉はドミノ・ピザの強さを次のように語っている。「来店型ではないので、インテリアコストをかけなくていい。7分でお届けできるエリアを商圏にしていますが、お店の立地はなにも駅前でなくてもいい。だから、投資効率が極めて高いんです。もう一つは、時間帯によってホールとキッチンの広さをアコーディオンのように広くしたり、縮めたりすることができるんです。つまり、ピーク時になればジャイロを多く走らせればいい。ホールを広げるようなものです」。実際、坪当たりの売上は群を抜くことになる。
この後、ドミノ・ピザはまたたくまに出店を重ね、ドミノジャイロは日本中を駆け回るようになる。一方、その成功に目を見張った人たちが真似るように宅配ピザを作っていく。だが、競争が激しくなるなかでもドミノ・ピザは確実に成長を遂げていく。そこに卓越した比嘉の経営手腕をみることができる。ただし、それ以上に、新たな価値を日本に根付かせた点を多くの人は評価するのではないだろうか。

Can do! 新たな戦いの始まり。

「アメリカ的な発想かもしれないが、いちばんいい時に売却することができた」と比嘉はいう。そう、比嘉はドミノ・ピザを売却する。それから2年。満を持して新たな価値を日本人たちに問う。それがWendy's®だ。グルメピザを仕掛けたように、今度のWendy's®はプレミアムハンバーガーだ。「アメリカではすでにグルメバーガーが人気になっています。今までの経験則でいえば、この流れはいずれ日本にも来る。たしかに、いまはデフレの時代ですが、そういう時代だからこそ、プレゼンテーションする意味も大きい気がします」そう言って、自信たっぷりの笑顔をみせる。
Wendy's®のホームページをみると、たしかにいつものバーガーとは異なる、レストランで味わうような洗練されたハンバーガーが紹介されている。日本だけのプレミアムバーガーもラインナップ。全メニューは、オープン後ということだが、なるほどファンでなくても期待感が高まるというものだ。
ドミノ・ピザのオープン時の話に少し戻る。「実をいうと、すでにピザ専門店はあって、あまり上手く行ってなかったんです。それで専門家たちはピザの宅配など上手く行くわけがないと言っていました。何しろ、当時、ナチュラルチーズの消費は年間1キロ弱。アメリアは14キロでしたから、全然、違います。ピザはナチュラルチーズですから、この数字一つとってみても、ダメだろうと。でも、それであきらめては何も始まらない。Can do!だ、私はそう思って仕掛けました」。
Can do! そう、やればできる! この比嘉のチャレンジ精神は、今回のウェンディーズでもまた新たな価値を私たちに教えてくれるに違いない。
目標は、と尋ねると5年で100店舗という答えが返ってきた。今度はFCも頭に入れているそうだ。5年で100店舗。控えめな数字という気がしなくもない。

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