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第246回 株式会社ブルームダイニングサービス 代表取締役 加藤弘康氏
update 11/10/11
株式会社ブルームダイニングサービス
加藤弘康氏
株式会社ブルームダイニングサービス 代表取締役 加藤弘康氏
生年月日 1977年3月20日
プロフィール 名古屋市西区出身。小学校時代からサッカー、野球をはじめ、中・高とバレーボールに熱中。3年制の専門学校に進み、21歳で社会にでる。大手企業に就職するが、1年半で退職。仕事よりサーフィンにのめり込み、サーフィン中心の生活に送る。25歳までは徹底的に遊び、25歳から独立を目指して本気モードに。青写真通り、20代前半はサーフィンに浸り、25歳からは仕事に明け暮れ、29歳で念願の独立を果たす。2011年10月現在、「下町情熱酒場小田井ホルモン」ほか名古屋市を中心に13店舗を展開する。
主な業態 「GABUCHIKIワイン倶楽部」「がブリチキン」「大曽根鉄板軒」他
企業HP http://bloom-ds.com/

泣き虫君。

小さい頃は女の子とばかり遊んでいた。姉と姉の友だちが、お友だちだった。「お人形さんごっこ」が大好きの、泣き虫だった。いまから振り返れば想像もできない、加藤の子どもの頃のお話。「男の子はスグいじめるからいやだったんです。大人しいうえに背も低く、いじめっ子からすれば恰好のターゲットだったんでしょう(笑)」。
泣き虫君から涙が消えたのは、小学4年生の担任のおかげ。「熱血先生でした。サッカーと野球に誘ってくれました。それから少しずつ自信が出てきたんだと思います」。何かにつけ目をかけ、リーダー的な役割を与えてくれた。泣き虫だった少年が、先生のおかげで、周りをリードする元気で活発な少年に生まれかわった。

バレーに熱中。

「父は叩き上げの人」と加藤。映画のヘラルドに入社し、現在は名古屋のケーブルテレビ局スターキャット(ジャスダック上場)の社長を務めている。「勤勉な人です。ヘラルドに中途入社し、ケーブルTVの社長にまでなったんですから」。たしかに、と頷く。この父の性格を受け継いでいるのだろう。加藤もまたある意味、勤勉だといえる。ただ子どもだけに、エネルギーは勉強以外に向きがちだ。中学から始めたバレーに熱中した。日本福祉大学付属高校に進学してからもバレーに明け暮れた。「朝7時から朝練を始め、授業中は爆睡(笑)。放課後からまた練習。帰宅するのは10時頃です」。この生活を3年間続けた。
高校になると、背丈もグっと伸び183センチになった。チビで、デブだった子ども時代を卒業した。

中卒断念、高卒後、社会に。

「実をいうと中学を卒業したら仕事をしようと思っていたんです。でも、さすがにそうはいかないので、高校に進んだんですが、バレー以外は何もしていませんから、成績はビリケツです。私より成績が悪いのは、みんな学校を辞めていったこともあってね。だから大学に行く気もなく、3年制の専門学校に進みました。普通、専門学校は2年制ですが、私が選択した経営コースは3年制だったんです」。
「その学校を卒業して、念願の社会に出るんですが、初めて就職した会社を1年半で退職してしまいました。父からは最低3年、と言われていたんですが、ケツをまくってしまったわけです。その一方で、サーフィンにハマりました。もともと17歳でスノーボードをはじめたのが、きっかけでした。山と海の違いはあるんですが」。
サーフィンのため、定職に就くのは断念する。フリーター。メキシコ料理を出すレストラン・バーに勤めた。仕事が終われば海に向かう。そんな生活が始まった。

一人、海外遠征。

波に乗る。ただそれだけのことに、どうして人は魅了されるのだろう。この「飲食の戦士」のなかでも、サーフィンにハマった戦士は少なくない。共通していえることは、それが何であれ、トコトン追求したことだ。加藤ももちろん逃げ出すことはなかった。大会にも出場し、スポンサーの獲得も狙った。お金が貯まると海外にも出かけた。一人、海外遠征。寝るところもなく、野宿を余儀なくされたこともあった。「バリ、オーストラリアなどに出向き、5ヵ月、25万円で生活したこともある」と言っている。
一方、アルバイトだと言って仕事に手を抜くことはなかった。「最初はバーテンダーがカッコ良くて、バーテンになろうと思っていたんです。でも、もともと要領が悪くって。高校時代、ファミレスでバイトをした時から怒られまくりだったんです。バレーの時もそうだったんですが、人の3倍がんばって、それでようやく人といっしょのレベルになれる。そう思っていましたから、仕事でも手を抜けなかったんです」。
勤めたレストランもまたアルバイトだからと言って甘やかしてくれなかった。あえて厳しい店を選んだからだ。ただ、それが加藤の飲食の原型をつくったのは間違いない。まだ20代前半、時間はたっぷりあった。

アルバイト、店長。

サッカー、野球、バレーといろんなスポーツをやった。どれも手を抜くことはなかった。だが、それ以上にサーフィンには熱中した。「バカみたいにやった」と加藤。だからといって、もう一つの生活をおざなりにしなかった。24歳から、その後の人生を決める居酒屋でアルバイトを開始する。
「軍隊みたいな会社でした。7店舗ぐらいあったでしょうか。そこで、アルバイトながら、店長を任されました。とにかく軍隊ですから、YESしかないんです、でも私は反骨心が強くって。だからNOとも言った。それが良かったんでしょう。社長がかわいがってくれました。もちろん成績も残しました。前にいたレストランでサービスを勉強していましたから、とにかくノリは居酒屋で、でもサービスはかゆいところにも手が届くようにしようと。そういうのが、いい成績につながったんだと思います」。
実際、3000万円を売上げる店を任されたりもした。25歳になって、さらに仕事に熱中するようになる。

みえてきた、独立の二文字。

無免許運転で免許を取り上げられた。正確にいえば、免許が失効したいたことに気づかずに運転していた。免許のことまで気が回らなかったのだろう。失効中の運転は無免許とおなじように扱われる。2年間、再取得もできなかった。「車を取り上げられると、海はもちろん家にも帰れない。それで、初めて一人暮らしを始めたんです。もちろん、親には、仕事のためと言ってありますが(笑)」。
もともと25歳からは独立に向け本気モードになる、と決めていた。免許をなくしたことがいい意味で引き金になった。それからというのも、まっしぐらに独立開業を目指してひた走った。
29歳、勤めた居酒屋で統括部長にまでなっていた。だが、独立の気持ちはブレない。2006年、2月に結婚。同年4月に「下町情熱酒場 小田井ホルモン」オープン。父が保証人になってくれたおかげで、2500万円を借り入れることができた。加藤独立、1号店である。むろん失敗は許されない。

幸せの花を咲かそう。

そこからの加藤の快進撃は、2011年10月現在で13店舗を経営していることからも明らかだろう。興味深いのは、いち早く新卒採用にも力を注いでいることだ。無垢な血を入れること。それによって店の活性化を図る。若い経営者の挑戦である。
社名の「bloom」は開花を指す。お客様はもちろん、従業員、そして地域にも「幸せの花を咲かす」という信念を社名に盛り込んだ。
20代前半の頃、加藤は友人たちと話して思ったことがある。
「目先のお金を大事にしている奴がいる。安定を望んでいる奴もいる。オレみたいにフリーターをやっている奴もいる。何が正しいんやろ、って」。
加藤は、その答えを社名に託した。そんな気がする。
泣き虫だったから、人の弱さも強さもわかる。それがわかったうえで、人と接することができる。これが加藤の強みかもしれない。
スタッフたちが加藤を語る時、その顔は笑顔になる。お客様は店を訪れただけで、笑顔になる。それだけみても、加藤は、世界でたった一つの花を咲かす名人なのかもしれないと思った。笑顔の花を咲かすことを追い求めて。加藤の生き様は、この言葉に凝縮している気がする。

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