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第219回 株式会社板前寿司ジャパン 代表取締役社長 中村 桂氏
update 11/06/07
株式会社板前寿司ジャパン
中村 桂氏
株式会社板前寿司ジャパン 代表取締役社長 中村 桂氏
生年月日 1972年12月23日
プロフィール 山梨県山梨市出身。海産物の加工会社を営む中村家の次男。3人兄弟の末っ子。姉と兄にコンプレックスを抱きながら育つが、中学時代に出合った恩師によって救われ、人生を拓く。幼い頃から母の芯の強さに心打たれ、何事にも負けない強い心も育てていく。専修大学卒業後、TVの制作会社に入社。数々のドキュメント番組を手掛け、スクープも連発。6年間、席を置いたのち、山梨に戻り、家業を引き継ぐ。海外に買い付けに行った際に香港で「味千ラーメン」を展開するリッキー・チェン氏との運命的な出会いを果たし、タッグを組んで「板前寿司」の展開に着手。青森県大間産本マグロの解体ショーを店頭で開催し、激安価格で販売するほか、「4年連続 初セリ 最高値落札」を行うなど各界から注目を集める若手経営者の一人である。現在、香港25店舗、シンガポール3店舗、中国3店舗、マカオ2店舗、日本5店舗を展開している。
主な業態 「板前寿司」「板長寿司」「自家うどん」
企業HP http://www.itamae.co.jp/

商売人の家に生まれた3人の子どもたち。

兄と弟が頭を突き合わせてヒソヒソと会話をする。「商売は怖いな」。またある時は、「商売って凄いな」と。兄と弟は2歳違い。互いを意識する年齢差だ。「私たちの家は私が幼い頃から海産物の加工を手掛けていました。当時は「数の子」が主力製品です。数の子は原価が乱高下しやすく、その度に業績も上下にブレます。父は何事もストレートに表現する人だったので、『もう会社が潰れるぞ』、『よし海外旅行だ』と(笑)。その度に姉も含め、子どもたち3人が右往左往するわけです」。今回、ご登場いただくのは、ヒソヒソ話の張本人、中村家の次男、中村桂である。父の興した「信玄食品」は、その後、あわびを扱うようになり、「あわびの煮貝」を始めとした海産物加工で、日本でも有数な会社に育っていく。

海のない県で、海産物の加工会社「信玄食品」が誕生する。

姉と兄にコンプレックスを抱いていた。つねに成績1位の姉、誰からも好かれる兄。2人の姉兄を羨みつつも、中村は彼らの陰に隠れて過ごすような少年だった。中村が生まれた山梨市はこれといった産業がなく、細々とカイコを育て生計を立てる家が多かった。中村家も同様で、幼い頃の記憶のなかには、かすかにカイコが葉を食む音が残っている。父がこの海もない田舎で海産物加工の会社を興すようになったのは、父の弟たちが、親代わりになって彼らを育てた父のために水産物加工のルートを開いたのがきっかけだ。「当時、叔父たちは、二人で会社を興しました。最高時には300億円の売り上げをあげていたそうです。そこから仕事を回してもらっていました。ただ、そのうちに数の子に目を付け、鰊は身欠き鰊として京都に売り、数の子を加工して販売し始めるのです」。これが、父の会社「信玄食品」の基礎を築いていく。もっとも原材料の価格変動が激しく、その度に中村家の子供たちが右往左往したのは、すでに述べた通りだ。

芯の強さを母から学んだ。

「母は強い人でした」と中村は少年時代の記憶を辿る。「父は、激しい性格で、気に入らないことがあると家のなかでも暴力をふるうのです。私も文鎮で殴られたことがありました。母が家のなかで血を流すことも少なくなかった。それでも母は気丈に耐えていました。子どもたちに<人としての強さ>を見せたかったのでしょう。少し大きくなって離婚を勧めたこともありましたが、ここで逃げれば負けになる、というのです。そして、『勝つか負けるかは、自分の心のなかにあるんだよ』と諭すのです。そういう母を見て育ったことが、私の心の芯をかたちづくっていきます」。「結局、父も母も別れることなく、私たち子どももグレないでまっとうに育っていくのですが、血を流しながら子どもたちに『あなたたちはもう寝なさい』という母の姿はいまも忘れません。『病院に行かないの』と恐々たずねると、『そうしたらお父さんが逮捕されてしまうからね』と言いながら、私たちに向けたやさしい笑顔も」。

甲府市に引っ越す。さらば、コンプレックス。

父の暴力、姉兄たちへのコンプレックスを抱えたまま、小学4年生の時に、甲府市に引っ越すことになった。母の、多くの子どもたちのなかで育てたいという教育方針によるものだった。1学年、1クラス、30名に満たないクラスメイトが一気に、100名以上に増えた。だが、引っ込み思案の性格は変わらない。ところが、中学に進学し、担任になった教師のおかげで中村の性格はいっぺんする。「自信をつけさせてくれました。とにかく学級委員長など、ことあるごとにリーダーに指名してくれたんです。君にはお姉ちゃん、お兄ちゃんにも負けない力があると諭してくれました」。呪縛が解けたように、とたんにクラスのなかでも目立つ存在になった。「ゴミをみんなで拾う行事がありました。私が指揮するクラスは断トツの量です。隣のクラスはぜんぜんダメ。それで隣のクラスの指揮までするようになって。そのうち、同じ学年すべてのクラスが私にどうすればいいかと聞きにくるようになったんです」。人を惹きつけるだけではなく、戦略や戦術を組み立てるチカラがこの当時から育まれていった気がする。自信が人を育て、信頼がより強い力を育てるからだ。コンプレックスも、遠い記憶のなかに沈む。

スコットランドへ。16歳の旅。

高校生になっても中村のリーダーぶりは周りを圧倒する。「中学3年生になって、猛勉強して、高校は駿台高校という山梨で1番の私学に合格します。男子校です。合格したことで安心して、とにかく仲間と遊ぶことに熱中します。男子校だったからかもしれませんが、できる奴も、できない奴もいましたが垣根なんてありません。とくに私は好き嫌いなく、いろんな人間と付き合いました。その幅広いタイプの人間たちと接したことは、大人になっても役立つのですが、当時は、そのおかげで何かあればリーダーのような役割を任されました」。1年の学園祭。ディスコを催した。教室を大改装して、本格的なディスコを作り上げた。ゼロからものづくりを行う楽しさを実感したのは、この時である。順風満帆の高校生活。だが、翌年、みんなから慕われた中村が突然姿を消す。塾の帰りにたまたま手にしたパンフレットをみて留学を思い立ったのだ。すぐさま1年間の休学届を提出。一人、スコットランドに旅立ってしまう。「スコットランドでは、スペイン人やイタリア人、フランス人たちとシェアして部屋を借りました。休みになれば彼らの実家にいっしょに帰ったりして。16歳の少年にしては、できすぎた経験です。英語力も身に付きました」。中村を語るうえで重要なのは、芯の強さ、周りを魅了する人間力、そしてこのエピソードが示す通りの行動力だろう。この行動力はのちにTV制作のディレクターになった際もいかんなく発揮される。

大人への道。TV制作会社に入社し、社会と人の本質を追いかけた。

専修大学に入学し、思う存分、遊んだのち、中村はTVの制作会社に入社する。ここでドキュメント番組を手がける、あるディレクターに出合う。「彼からは本質とは何かを教わった気がします」。中村自身も、のちにディレクターになり、数々の事件を追い掛け、そのなかで蠢く人間ドラマを描く名作を残すようになる。スクープも連発した。1年間で363日働き、師と仰ぐディレクターに怒鳴られ続けたADは、将来を嘱望されるディレクターに育っていった。だが、6年を過ぎた頃に転機が訪れた。「油が乗り切っている頃です。TV局からも名指しで依頼が来るようになりました。そんなとき母から『帰って来てくれ』と連絡があったんです」。実は、中村が学生の時、父が病に倒れ帰らぬ人となっていた。とりあえず母が後を継いだ。それから数年、1度は兄が手を挙げたが、結局、中村にお鉢が回ってきた。父が亡くなった時、母を元気づけようと休みを利用して2ヵ月ほど手伝ったことがあった。2ヵ月もあれば、従業員と仲良くなるのは、中村にしては当然のことだった。片や輝かしいTVの世界、片や小さな田舎町の会社。29歳の中村ならずとも天秤にかけたくなる。おおよそ傾く方向も決まっている。だが、その時、「親しくなった従業員の人たちの顔が浮かんだんです。会社が潰れたら、あの人たちはどうなるんだろう。何しろ、田舎の、何もないところですから」。天秤は、田舎町の小さな会社に傾いた。

5時になれば、真っ暗闇。

経営企画関連の仕事から始めることになった。慣れぬ仕事である。だが、仕事以上に戸惑ったのは、東京と田舎町の違いだった。「夏はともかく、5時になればもう真っ暗です。真夜中になればなるほど、明かりが増した都会とは大違いです。TVのディレクターと結婚したはずの嫁はよく付いてきてくれたものです(笑)」。当時、中村は結婚したばかり。だが、家庭を顧みるような余裕はなかった。「とにかくがんばるしかありません。東京の、朝まで灯りがついているビジネスビルの様子を思い浮かべて、負けてはいけないと。朝4時まで会社にいて、7時半に出社する、そんな日が続きました」。当時、従業員数は50名。彼らの生活が中村一人の肩にのしかかった。

リッキーとの出会い。

海外にもひんぱんに出かけた。海産物を買い付けるためだ。ところがある時、ふと疑問を感じた。「世界各地で中国人たちがいい商いをしていると聞くんです。いままで日本がトップだったはずなのに。買い付けも彼らに敵わない。それで、一度、この目でたしかめようと香港に飛ぶんです」。そのとき「あわびの煮貝」、つまり信玄食品の商品を買ってくれる人が現れた。名前はリッキー・チェン。熊本発の「味千ラーメン」の香港チェーン店展開を大成功させた人物だった。たちまち中村は彼に魅了される。リッキーもまた中村に惚れ込んだ。しばらくして、リッキーから板前寿司の構想が打ち明けられる。そして、「いっしょにやらないか」と持ちかけられた。

寿司を世界食に。そのスタンダードを作る。

幸い、海産物の仕入れルートは、数多く持っている。世界の食材にも、精通するようになっていた。寿司のグローバル化。世界を相手にする仕事。迷いなく中村は快諾した。世界に寿司を広げる「板前寿司」、その象徴として日本に「板前寿司」を出店した。場所は赤坂。激戦区である。「舌が肥えた人の多い赤坂で、勝負してみたかったのです。日を追うごとにウソ臭い逆輸入寿司のイメージが払拭され、本当にいいものを安く楽しみたいお客様が来てくださるようになりました」。今後は、当初の目的通り、世界に向け寿司を発信していく。店舗網を作るだけではない。「寿司のスタンダードをつくろうと思っています。寿司は地域によって、また国の文化によってスタイルが違います。カリフォルニアロールなどもその一つです。ただ、寿司の本質は変わらない。だから、世界のどの国でも通用するスタンダードをつくれると思うんです。それは取りも直さず日本の文化の輸出といえるかもしれません。それを中国人のリッキーといっしょにやることにも意味があると思うんです」。今後の話になると中村の話はますます熱をまとった。そんな中村をみてふと思った。「怖いな」「凄いな」と商売について語った幼い頃。あれから二十数年。ようやく中村は、ハイリスク・ハイリターンだけではない商売のおもしろさを知ったのではないだろうか。父が商売人として追いかけていたであろうモノの意味も含めて。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
幼少時代 イギリス留学時代 大学時代
思い出のアルバム4 思い出のアルバム5 思い出のアルバム6
テレビ時代(カンボジアへ) リッキーと商売を始めた頃(2005年) 初競り最高値(2011年久兵衛、やま幸)
   
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