飲食業界をリードする社長の歴史を紹介します。 第1回 株式会社ガッツフードサービス 代表取締役社長 鬼塚純二
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■ダイエー退職、がんこフーズ小島会長との運命の出会い
社長写真ダイエーを辞めるときは、会社全体として辞めさせないという動きもあった。自分も、若かったんで判断が早かったか?とも思ったけど『違う』という自分の感覚を信じて辞めました。居場所がなかったからじゃなくて、目指す道の違いや社会の壁。当時、店長になれる年齢が35歳からだったから、僕が同期で1番出世しても35歳にならないと店長になれなかった。おまけに等級制度だったから等級を持ってる人の順番待ちという現実。さらに感じたのは、一つの会社の経営者じゃなく1店舗の責任者ということ。学生時代あんなに楽しくのびのびやってたのに会社に入ったら、組織はでかい、人も派閥も多すぎて。派閥を変わったら会社を辞める?これが社会か・・・愕然としました。
現役を続けていてもリミットだった35歳。僕は働くことを決めたわけだから、これからの13年間をどう過ごすかをもう一度選んだんです。大学時代にいろんな業態の飲食事業主に出会って、この業態で働く楽しさを伝えたかった。だったら、作る側になろう、事業を始めようと思ったんです。でも飲食業をはじめるには調理師免許も取らなきゃダメだし、修行もせなあかんって新聞見てたら“がんこ”が載ってて。炉辺焼きなら、初心者からでも学びやすいかな?って応募して面接に行ったとき初めて小島社長(現会長)とお会いしたんです。
<出会いの瞬間>
当時の“がんこ”は、1階が店舗、2〜4階が事務所で脇に上から下まで長い階段あって、そこを猛ダッシュで駆け降りてくる人がいた。僕を社員だと思ったのか「オハヨー!」と声かけてくれた。この人が今の社長(笑)。ええ会社やなーっ、が第一印象。小島社長(現会長)は当時50歳ちょっと。とにかく腰の低い、偉ぶらない人で、「この人、社長?」って思わせる人でした。会話から優しさを感じました。2時間の面接のほとんどを社長が話しているはずなのにそういう気にさせない。僕が「話を聞いてくれた」って思ったんだから聞き出すのがめちゃうまい!会う人、会う人をファンにする。商売の神だと思いました。この方から全てが始まった。小嶋淳司という人に出会えたことは、僕の『運』です。入社したら社長号令で【鬼塚を育てる!】が始まった。今の社長ご夫妻は仲人だし、小島現会長の(亡くなられた)奥様も影ながら応援してくださった。“がんこ”にいた19年、本社総務管理部門以外の現場と人事、出店、店舗開発を経験しました。29歳のとき東京出店を任されたとき総務関係も全てやりましたよ。約10億の売上目標と商品から総務まで全てに携わった。このゼロからの立ち上げが後に起業する際、非常に役立ちました。
■自分が輝ける場所はやっぱり現場
update 09/09/01
社長写真東京に出て14年後に常務になり、“がんこ”の中や東京では経営者の視点で見てこれて良かったんだけど、今まで自分は現場を見て方針や決断をしてきたのに、社員の顔と名前も一致しなくなるほど組織が大きくなってた。ここまできたらもう、だめだ。と思いました。ポスト的にも社長の次にカリスマ的存在になっていたし、僕自身が「常務がこのエリアにきてくれたら、売り上げは回復する」と期待されて回復させてきた実績(伝説)を作っちゃったからね。だから、「常務が言うんだから」って、僕が納得してない決断でも部下たちは実行していく。他にも、見過ごせばいいアルバイトのミスを放っておけない。その小さいミスが、大きな問題に発展するのがわかるから。でも3000人のTOPに立つときは、それを気にしてやってたらあかんわけですよ。そういうのを我慢する回数が増えていって、しんどくなったんです。僕はやっぱり現場主義なんですね。現場で覚えて育ってきて、発見して自分の頭で解釈して部下に落としていく。人から聞いたり、TVで観たり、想像しながら企画を考えるのは苦手。人にはいろいろタイプがあるけど、僕が輝ける場所は現場だった。
■創業時の苦しみが“もくち”らしさを生み、今でもそのスピリットが流れてる
社長写真親友でもあった熊木がすでに会社をやってて、社名がガッツインターナショナル。僕は、店を出すなら鉄板焼き店と考えていたから名前もイメージ先行。ガッツならがんこに近いし、熊木がガッツインターナショナル、僕はガッツフードにして、兄弟会社としてやっていこう!!屋号は40くらい考えましたが、会社名はこんな感じで決めました。開業して一番つらかったのは、“お客さまが来なかった半年間”。立ち上げたとき、1年間は一切メディアには出ずに自分たちでやろう、と決めた。だから、閉店後、朝までポスティングして始発で 帰って、昼すぎに出社って生活をしてました。
そのときの緊張感、危機感を共有できたことが大事だったんですよ。それがあるからお客さまが来たときのありがたさが身に沁みてね。みんながその感覚だからこそ、真から思える接客=“もくち”らしいサービスが作り出せたんです。(30席の店で)1日10人しか来なくても、1年経って1日30人、70人きても、あのときのありがたい気持ちで対応できるんです。メディアに出てたら、“もくち”のサービスの根幹部分が作れなかったと思います。お客さまに満足していただくためのこだわりや答えは、お客さまが持っていて、僕たちはそれをずっと探す(追求して)いくんだと思います。当時ね、残された食事があったら、上まで追いかけていって「理由を教えてくださいぃ〜」って(笑)。「おなかいっぱいだから」といわれても、「ホントですかー?」ってその繰り返し。
あとは青山という立地ですよ。グルメやクリエイターが多いから、的を得た批評も助言もたくさん。いただいた意見や助言はすぐに取り入れて・・・そうそう!僕らの最大の武器はレスポンスが早いことです!
お客さまに言われたら、「明日、もう1回来ていただけませんか?」って。だってね、常連さんも次の人が来るまで帰られないから、電話して呼んでくれて・・・。無理難題も愛情、本当にありがたかったです。この店はそういうお客さまと一緒に作ってきた店なんです。開業当時のこういう経緯があって“決して満足しない”ってことが今も脈絡と流れています。たとえば、ある程度の時間(夜11時くらい)で一組帰ったら、現場の流れから「今日はこんなもん」って思って「ちょっと休憩・・・」ってなるところを、僕らは表でビラ配ります。今日はこのくらいで、いいよね。という考えがありません。そして、もう一つ大切にしているのは満席時の対応。
足を運んでくださったお客さまを戸口でお断りなんてありえない。我々の家(店)の前まで来てくださったのだから、中に一歩でも入っていただく。そして直接、入れない状況を直接見てもらうと、次、絶対来ようって思ってもらえるし、「やっぱり予約したほうがいいですか?」とか、今日は食べてもらえなくてもお客さまとのコミュニケーションが生まれる。満席であることを丁寧にお伝えするだけじゃない“ もくち”らしいあったかさこそ、僕たちが目指す大衆の半歩リードなんです。
僕が飲食業を目指したのは、学生時代や社会人経験を通じていろんな理由があったけど、僕ね、タコ焼きが大好きなんです。小さい頃からタコ焼き屋を、やりたくてやりたくて、というのがずっとあった。いつかはやりたい!今でもやりたい(笑)。動機って、本当に人を動かすんです。僕がそうだったように、将来独立したいと思う人は、小さい頃に夢みたとか、今いる組織や仕事が「何か違う」、「手ごたえを感じられない」と思うことが多いかもしれませんね。僕たちは経験者ですから、そういう人が半歩でも一歩でも踏み出せるような手助けをしていきたいです。というか、ちょっとでもそういう話を僕たちにしたらスカウトしちゃうかもしれないですよ(笑)。