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第192回 株式会社大島ラーメン 代表取締役社長 大島啓二氏
update 10/12/21
株式会社大島ラーメン
大島啓二氏
株式会社大島ラーメン 代表取締役社長 大島啓二氏
生年月日 1953年5月、富山県高岡市に生まれる。
プロフィール 2人兄弟の長男。両親共に仕事をしていたこともあり、6歳下の弟の面倒をみながら、育つ。高校卒業後、いったん地元の会社で働くが、ボクシングの世界に夢を追い求め、上京。帝拳ジムに通いながら、生活のため親戚が営むラーメン店でアルバイトを始める。これが「大島ラーメン」の起源。現在、「大島ラーメン」は、首都圏に直営13店舗、FC店2店舗を展開している。すでに、ラーメン人生は30年以上に亘る。
主な業態 「大島ラーメン」
企業HP http://www.oshima-ramen.co.jp/
「湯島で成功したでしょ。だから、クラブをやらないかとか、いろいろ誘われた時もありした。でも、絶対手を出さなかった。ラーメンの神様が怒って、バチがあたると思っていたからね」。今回、ご登場いただく「大島ラーメン」の社長、大島啓二は、ラーメンを作り始めてすでに30年以上。この間、ラーメンと餃子、それ以外には一切手をつけなかった。たしかに「ラーメンの神様」に選ばれた一人のような気がする。ラーメン人生を歩んできた大島啓二。今回は、彼の過去を振り返りながら、ラーメンの神様との出会いを追いかけてみよう。

富山県高岡市。

高岡市は、富山県の北西部に位置する。富山県のなかでは県庁所在地にあたる富山市に次ぎ、人口の多い市である。とはいえ、この話の舞台は昭和でいえば28年。第二の市といっても、田舎町の一つだったに違いない。代わりに、いま以上に自然に恵まれ、海、川、山が、大島の遊び相手だった。「ともかく子ども時代はわんぱくでした」「しょっちゅう海や川で遊んでいましたね。でも、それで、2回、溺れかけた」と大島は子ども時代を振り返る。「みんなで野球をやったり、泳ぎにいったりと。あの頃はそういう遊びしかなかったからね」。中学になって、野球部に入るが、1年でリタイア。その後、バトミントン部に入り、こちらは高校まで続けている。

父が家をでる。

「父は地元の印刷会社に勤めていました。酒癖が悪く、中学2年生の頃だったかな。父と取っ組み合いをしたことがある。母に手を上げましたからね」。父は、いまでも大島の反面教師である。「ああいう風にはなりたくない」と。その父は、大島が18歳の時に、家を出ていく。清々した、というような口調だが、複雑な心境だったに違いない。いずれにしても、父の蒸発は大島に多少なりとも影響を与えている。ところで、大島は、高校2年の時に、ボクシングに出会った。「大きな負けはなく、もっと頑張れば強くなれるのでは、と思うようになりました。高校卒業後、いったん地元の会社に就職するのですが、富山に埋もれたくないと思う一方でプロボクサーになりたい夢も忘れられず、1年半で退職。東京へ向かいました。チャンピオンになれば、母を楽にさせてあげられる、そんなもう一つの夢も背負いながら」。

チャンピオンを目標に上京。軍資金は5万3000円。

「夢を実現する」。わずか5万3000円の軍資金を握りしめ、列車に飛び乗った。「大宮あたりを通過したとき、建ち並ぶビルをみて仰天しました。東京はやっぱり凄いやって。実際は、まだ東京都にもついてなかったんですけどね(笑)」。何もかも、初めての東京だ。めざすは、帝拳、世界チャンピオン。だが、生活もある。親戚が経営しているラーメン店に住み込み、アルバイトを始めた。夕方までの時間を利用し、帝拳ジムで汗を流し、深夜2時、仕事が終わったあと、また走る、そんな日が続いた。どれぐらい経った頃だろうか。大島はアルバイトから、正社員になる。「店が忙しくなったのと、スタッフが辞めたりしたことが重なって、ジムに通う時間がなくなってしまったんです。ボクサーになろう、チャンピオンになろうと東京にでてきたのに、オレなにやってんだろうって。何でラーメン屋なんだろうって」。だが、この時の決断が、大島の一生を左右する。大島のラーメン人生が本格的にスタートした時ともいえるからだ。

店主への道。

大島が就職したラーメン店は、それ以外にも、スナックやパブなど、手広く店舗を展開していた。大島は、その応援や立ち上げにも駆り出された。そんな折、湯島のラーメン店を切り盛りしていた先輩が、突然、店に来なくなった。大島1人が取り残されてしまう。だが、それがきっかけで店の運営すべてが、大島に委ねられることになる。「この店はラーメン店なのに、常連さんにはボトルキープを許したり、注文されたらサンマを焼いたりしていたんです。だから、常連さんには愛されていたんですが、逆に新規のお客様は入りにくかった。それで一切、常連さんへの特別なサービスは辞めることにしました」。店の様子はガラッとかわることになる。だが、大島は恐れなかった。ラーメンと餃子だけ、といういまのスタイルがこの時、確立したといっていい。常連客は失ったが、新規の客がドンドン入ってきた。レシピも研究するようになる。ラーメンと餃子だけ、ある意味、ほかのメニューに逃げることはできない。この2つの味を徹底的に追及した。スタッフはどうしたんだろう。「実は、東京に来るときに分かれた彼女に手伝ってくれないか、と声をかけたんです。彼女は、京都で働いていたんですが、やってきてくれました」。この時の一言が、ある意味、プロポーズの言葉になった。

独立し、会社設立。

実質的に店主になっていた大島に、当時の社長が委託運営の話を持ちかける。売上から10万円を会社に支払うという契約。これが、後に15万、20万、最終的には40万円になるのだが、大島に異存はなかった。実質的に、この店が、大島ラーメン1号店となる。業績は、うなぎのぼり。千駄木に2店舗目を出店、同時に有限会社「コント大島」を設立する。この2号店は、社長に、1000万円の保証人になってもらったが、名義もすべて大島のもの。会社も設立し、大島号は、いよいよビジネスの大海原に船出する。この2号店出店に際し、弟も母も呼び寄せた。妻も含め、4人の家族経営的なものだったが、大島が描いていた一つの幸せのかたちが実現したことになる。

銀座に5店舗目出店。屋号も、社名も「大島ラーメン」に。

ラーメンの神だけでなく、ビジネスの神にも愛されたのだろう。出店する店は、ことごとく成功する。人も不思議と寄ってきた。ところで、「コント大島」。「コント」には、どんな意味があるのかと尋ねると、実は、もともとの会社がそういう名だったからという答え。「お笑いのコントを意識したものではない」とのことだ。それどころか、深夜に酔っ払いが入ってきて、コントという店名を茶化す。「その度に腹が立った」という。「こっちは、真剣にやっているんですからね」。そういうこともあって、屋号も、社名も変更した。「大島ラーメン」、響もいい、覚えやすい、これだ、と大島は全店の屋号もすべて、大島ラーメンにチェンジ。ラーメンの神と共に歩く、大島ラーメン30年の道のりが始まった。

ラーメンの神、大島に微笑む。

もし、ラーメンでなければ何だったんだろう。どうして大島は、ラーメンに魅了されていったのだろう。こんな質問をぶつけたとすれば、「食べるため、生活するため」という愚直な答えが、返ってくるはずだ。「当時のラーメンといえば、東京ラーメンで、それで、おいしかったよって言ってもらえた。でも、それから道産子とか、とんこつとか、そういうジャンルが入ってきました。時代によって好まれる味も変化してきたんですね。だから、うちのラーメンも、時代に合わせ変化しています。当時のラーメンといまでは、まるで違う味なんです」。ここにも、大島の驕ることのない、愚直さをみることができる。ラーメンの神に出会い、愛されたのは、この気質ゆえではあるまいか。

全世界の人たちに大島ラーメンを食べてもらうのがいまの夢。

全世界の人に食べてもらいたい。実は、そんな思いから、アメリカのデンバーに出店したことがある。しかし、海外一号店はやむなく閉店している。だが、それであきらめたわけではない。現在、再度挑戦と、今度は中国への出店計画を進めている。2011年半ばが目標だ。さて、二号店目は、どうなるだろうか。大島のラーメン人生のある意味、終着点であり、ある意味、次の出発点ともなる、その店の誕生が待ち遠しい。

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