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第184回 株式会社トップアンドフレーバー 代表取締役 山内勝常彦氏
update 10/11/16
株式会社トップアンドフレーバー
山内勝常彦氏
株式会社トップアンドフレーバー 代表取締役 山内勝常彦氏
生年月日 1957年2月、東京都生まれ。
プロフィール 小学生の頃から野球を始め、中学生の時には調布大会で優勝するなどの実績を残し、早稲田実業に進学。後にプロになる選手たちとも接しながら、高校時代を過ごす。高校卒業後は一転、パイロットをめざし宮崎の航空大学を受験したが、2回に渡り失敗。パイロットの夢を断念する。26歳〜30歳にかけコピーやFAXで有名なリコーに勤務し、トップセールスマンとして辣腕をふるう。猛烈な引き留めにもあったが、30歳で退職し、今度はレールのない道をあゆみ始める。以来、20数年。2011年11月時点で、家系ラーメンの「せい家」(セイヤ)を15店舗展開。FC展開にも注力し、社員からも2名の、FC店オーナーを輩出している。
主な業態 「せい家」
企業HP http://www.seiya-net.com/

野球少年は、プロをめざし、夢を追いかける。

野球少年だった。それもピッチャーで、打順は常に4番か5番。野球の上手な少年だった。「たまたま野球チームをつくるというので、誘われたんです。それがきっかけですよね」、今回、ご登場いただく山内 勝常彦は、笑いながら子ども時代を振り返った。まさか、たまたま誘われた野球で飯を食っていこうと思うようになるなんて、本人も予想していなかったことだろう。中学になり、山内は、調布大会で優勝。都大会にも出場している。横手投げながら、スピードに乗った球は、凡打の山を築いた。あわや完全試合も経験している。当然、プロも視野に入ってくる。山内は多くのプロ選手を輩出した早稲田実業に進学。8年下には荒木大輔がいた。江川や掛布といったわれわれでいえばブラウン管のなかでしかみたことのない選手たちとも実際に戦っている。「でも、もういいかって気持ちもありました。だから、野球ができる大学には進まず、宮崎の航空学校を受験したのです」。だが、この受験に失敗する。2回受けたが、ついに合格のキップは手に入らなかった。挫折といえば一つの挫折だろう。パイロットになるという目標は砕け散った。

敏腕営業マンが、魅せられた一杯のラーメン。

いくつかのアルバイトを経験した後、正社員としてコピーやFAXのリコーに入社したのは、26歳の時だ。もともと営業の資質があったのだろう。メキメキ頭角を現し、すぐにトップセールスマンの仲間入りを果たす。1000名を数える社員のなかでナンバー1に選ばれたことも少なくない。給与もよかった。だが、1年経っても、まだ27歳。生き方に迷う年頃でもある。そんな時に船井総研の船井幸雄氏の著書に触れる。電気が走った。こういう風に生きていければいい。初めて社長になろうと思ったのはこの時だ。だが、あわてなかった。30歳まではリコーで、「ちから」を蓄え続けた。30歳には、結婚もしている。人生の一つの分岐点。山内はリコーを卒業するという道を選んだ。取締役としてある企業に入社。後にM&Aを逆にしかけ、大手企業の傘下に組み込んだ。そこでも主要なポストに就いたのだが、一杯のラーメンに出会ったことで、人生が新たな方向に動き始めた。それが横浜発祥の「家系ラーメン」である。ちなみに、「家系ラーメン」とは、横浜のラーメン屋、吉村家を源流とし横浜市周辺を中心に広まったラーメンおよび一群のラーメン屋を指すということだ。あまりの旨さにとりこになった山内はまず、新事業として打ち出そうと、会社に企画書を提出した。だが、却下される。なら自らやるしかないと、それまでの地位と1600万円あった給与を捨て、ラーメン店で修行を始めることを決意した。給料は600万円。1000万円の開きがあったが意に介さない。「ぜったい成功する」という思いがあったからである。

実力だけの世界に飛び込んだ。

「やるんじゃなかった。入店1日目にそう思った(笑)」と山内。サラリーマンの世界とはまるで異なる客商売についていくことができなかった。人気店の、目の回るいそがしさにも根をあげそうになった。だが、もうこの道でいくしかない。山内の戦いが始まる。この時期、山内は、ある人物と出会っている。現在、トップアンドフレーバーの顧問である小林氏である。同氏は、モスフードサービスのナンバー2として、同社を上場企業に育てたことで知られている。さて、山内、40歳。いよいよ独立の時がやってくる。プロ野球選手をめざした青年が、畑は違えども、実力だけで勝負する世界にデビューする時が来たのだ。ここでひとつおもしろい話がある。山内は1号店を世田谷区の経堂に出店するのだが、その経緯に関して。ともに立ち上げたパートナーの母君が、ある占い師を紹介してくれた。もともと多摩あたりでの出店を考えていたが、その旨を伝えると、占い師は、そこはだめだという。代わりに、経堂の商店街に不動産を営んでいるおばあさんがいる、そこに行けば助けてくれるということだった。占いを信じたわけではない。冗談だろうという思いのほうが強かった。だが念のために、言われた通り経堂の不動産屋を探し、店を覗くと、たしかに老婆がいたのである。「せい家」、1号店は、こうした経緯で経堂に生まれている。なにかしら神秘的なちからも感じる話だが、案外、きっかけというのは、こういうことかもしれない。

夢を追いかけた少年は、いまなお夢を追いかけている。

さて、肝心の店はどうなっていくのだろう。駅から少し離れた町の一角にオープンした「せい家」だったが、またたく間に人気店になっていく。「東京に家系ラーメンがなかったこともあったのでしょう。かつて企画書を書き、想像したように右肩上がりで業績は伸びていきました」と山内。当時は、TVにも盛んに取り上げられたという。現在も業績は好調で「せい家」は都内に15店舗に増え、いずれも繁盛店となっている。うち2店舗は、社員が独立して経営するFC店だ。社員も当然、増えた。社員にはどんなことを言っていますか、と聞いてみた。すると「彼らには夢を持てと言っています」との答え。振り返ってみると山内のいままでは、かたちは違えども時々に描いた夢をわくわくしながら追いかけた軌跡といえるような気がする。もう50歳を過ぎた山内だが、まだまだいま目の前にある夢を追いかけていくのではないだろうか。

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