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第159回 株式会社スプラウトインベストメント 代表取締役社長 高橋誠太郎氏
update 10/08/10
株式会社スプラウトインベストメント
高橋誠太郎氏
株式会社スプラウトインベストメント 代表取締役社長 高橋誠太郎氏
生年月日 1974年6月5日生まれ。仙台出身。
プロフィール 商売人の家系に育つ。慶應大学では、「究極の商売人」になることを目標に取り組み、就職時には、商社とコンサルティング会社を受け、日本LCAに入社。4年半、営業とコンサルティングを学び、27歳で起業。現在は、究極の天然地魚専門店「魚ばか」銀座、新宿、いかセンター総本店・活魚センターなどを都内に12店舗を展開している。
主な業態 「魚ばか」「いかセンター」
企業HP http://biz-xtasy.com/

クラブと勉強に打ち込んだ少年時代。

1974年6月5日、仙台市に生まれる。実家は酒販店を営んでいる。父がたは親戚も商売人が多く、商売人の系譜を受け継いでいる。4人兄弟の長男。7つ違いの弟は現在、同社で役員をしている。目立つことが好きな少年で運動も勉強も得意なほうだった。中学でバスケットボールを始めるのだが、練習に熱を入れ過ぎケガをしてえばりん坊のマネージャーに。勉強では、学年でも5本の指に入る秀才だった。子どもの頃には、「うちには車が3台もある、だから裕福なんだと思っていた(笑)」らしい。ただビール1ケースを運んで得られる利益の少なさにも、驚いたこともある。たったこれだけなのか。この少年の頃の思いが、その後、「商売の質」を考えるうえで重要な原点になったのではないか。高校時代は、水球部に所属。3年時には国体に出た。練習にも明け暮れ「5月から11月まで仙台の寒いプールに入っていました。夏以外は、苦行みたいなものです」。高校は男子校だったが私服の登校がOKという自由な校風だったようだ。クラブ活動に専念したが、成績は、トップ10には入っていた、そうだ。慶應大学に進む。初の東京暮らし。「仙台は東北で一番の繁華街なのですが、その仙台クラスの街がいくつもある。これが都市なのかと驚いた」と、上京した当時の様子を語っている。

大学時代、海外旅行が高橋を育てる。

高橋の人生を語るとき、一つのターニングポイントとなるのが、大学時代だ。大学に入り、弁護士を志望する。だが、「同じ弁護士を志望している学生たちをみていると、ほんとに勉強が好きなんです。オレは、ここまで好きじゃないな」と、距離を感じる。代わりに留学生たちと親しくなった。彼らが国に帰るときに、一緒について彼らの国を巡ったのが海外旅行の始まりだった。最初に行った「韓国」で衝撃を受けた。「お隣の国なのに、何から何まで違う」。韓国でこうなのだからほかの国はどうなんだろう。好奇心が止められなくなった。中国にも行った。フィリピンやタイ、メキシコやケニアにも出かけている。オススメはベトナム。もとフランス領のこの国は、「料理がとてもおいしい」らしい。一人旅より、2人で出かけることのほうが多かったというが、バックパッカーのような貧乏旅行だ。香港でメイドインジャパンの時計を安く買い、その足でケニアに行って、現地でみつけた品と物々交換もした。まるで沢木耕太郎氏の「深夜特急」に登場しそうな一コマである。「一度、行けば1〜2ヵ月帰ってこなかった」。学生の長い休みが始まると、高橋はいつも空港に駆け込んだ。

コスタリカで始めた就職活動。

ところで、青年時代の高橋の話を聞いていると、旺盛な好奇心、たしかな自立心が伺える。自信家めいた顔も時にのぞかせた。就職でも、大胆な行動を取る。「大学2年ぐらいでしょうか。弁護士になるのはちょっと時間がかかりすぎる。それよりも究極の商売人になろうと思い始めたんです」。高橋が定義付ける「究極の商売人」とは、世の中の流れを読み、資金を集め、投資することで利益を生む商売人のこと。「それに海外を組み合わせればかっこいいな」と、商社に就職しようと考えた。その後の行動がふるっている。高橋は、コスタリカに飛んだ。現地にある日本の商社に、大胆にもアプローチをかけた。「さすがに半袖、タンパンはまずいだろうと、むこうでスーツを買って飛び込みで訪問しました。それで本社の人を紹介してくれと。おもしろい奴と思ってくれたのでしょう。すぐに了解してくれました」。この商社に行くかどうか最後まで迷ったが、結局、日本LCAというコンサルティング会社に就職する。日本LCAから生まれたベンチャー・リンクが行なった「サンマルク」の上場を目の当たりにして、自らが定義した「究極の商売」の一例に強く惹かれたからだ。「最初はもちろんベンチャー・リンクに興味を持ったんですが、基本は営業部隊なので、そのベンチャー・リンクをつくった日本LCAに出向くことになるんです」。ちなみに、高橋はいまでも、「サンマルク」が上場したときの新聞記事を大事に持っている。それだけ衝撃を受けたということだろう。

3年たったら独立して起業する。青年は強い野望と意志を抱え、社会人生活を始めた。

「尊敬できる人の下ではたらかせてください」、高橋は、入社にあたり一つの条件を出した。いま思えば無謀で、不遜な発言だ。だが、当時はそれだけ真剣で、かつ向こう見ずともいえるが、自信もあったのだろう。ちなみに日本LCAはすでに述べた通り、日本を代表するコンサルティング会社である。住宅不動産業界、自動車業界、小売業界等の業界に特化したコンサルティングに定評があり、高橋は、自動車業界を担当することになった。むろん、最高の営業マンが高橋のうえに立つことになる。「最初はまるで売れなかった」と入社当時を振り返り、高橋は笑う。「コンサルの営業というのは、カタチのないものに相当のお金を払ってもらう仕事です。誰が買うんだ、と思っていたのがいけなかったんでしょう。コンサルが対価に見合ったものだとわかって、初めて売れ始めたんです。社内の成績も伸びる。2年後には、希望していた外食の部署への異動も叶った。高橋は、ここでコンサルティングも自ら行なうようになった。その後の高橋の人生を決める「ハーバーハウス」に出会うのも、このときだ。3年で独立するつもりだったが、結局、4年半勤め、27歳で起業した。「ハーバーハウス」とパートナー契約をむすんで開業した「ざうお」だ。

1億円の投資を1年5ヵ月で回収。鮮烈なデビューを飾る。

「最初の1号店で場外ホームランを放った」と高橋は表現する。もともとコンサルで関わってきた店である。強みも弱みも知っている。だから、間違いなく成功すると確信していたそうだ。「ざうお」はいうまでもなく超がつく人気店だが、「店内で魚を釣り、それを食す」というエンターティナー的な要素も強い店。1億円もの投資が必要だったのは、そうした理由からだろう。これだけ巨額の投資になればたいていひるんでしまう。だが、コンサルタントに迷いはなかった。「父にも、事業計画書を出し、プレゼンして資金をだしてもらいました」。その額は6000万円。父の商売が、カタチをかえ息子に引き継がれたといってもいいのではないだろうか。予想を超える反響だった。1年5ヵ月で、1億円にのぼった初期投資を回収する。2号店も出店し、3号店目になって、自社ブランド店「魚ばか」を出店することになった。「魚には、絶対の自信がありました。魚はいうまでもなく鮮度が最大の味です。漁港から直接仕入れるルートをつくったことで、鮮度ではどこにも負けない魚介類を提供できるようになったんです」。だが、いくら鮮度がいいといっても「ハーバーハウス」の客層は、ファミリーが主体。そういうこともあって、自社ブランドを立ち上げた。後の超人気店、「イカセンター」の起源でもある。

現地より現地な「浜シリーズ」。

最初の投資が1億円ということで、高橋をリスクも恐れない起業家と思う人がいるかもしれない。しかし、高橋の戦略は、あくまで「低投資」である。1号店にしても、実は家賃はかなり安い。要は、何にお金をかけ、何を抑えるか、のバランスが大事だということだろう。コンサル時代に実践を通し、学んだことでもある。だが、理論的な思考を元に儲かる仕組みを整えても、飲食店の場合は、そう簡単に「人気店」をつくれない。経営者の情熱や思い入れといった、どちらかといえば人間臭さが、人を動かし、客に感動を与えるはずなのである。では、高橋はどうだろう。実をいうと、高橋からは、そういう人間臭さがあまり伝わってこない。どちらかといえばIT企業の経営者のようなスマートなイメージが先行する。だが、話を伺い、改めて感じたのは、その印象は、正確に高橋をとらえていないということだ。いくつのも国を回った貧乏旅行、その時々で出会った人との交流、現地の港で食べた魚の味、それら一つひとつが、高橋の思考をカタチづくっている。彼もまた汗を流して、育ってきた人なのである。「いま、考えているのは現地より現地な『浜シリーズ』」。世界、各国の漁港で味わえるおいしい料理を、その港、港の雰囲気を堪能しながら味わえる店を出店するという。早く、高橋が次にプロデュースする、その店をみたくてしかたなくなった。

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