1956年東京都生まれ。18歳でフランス料理の道を志し、フランス帰りのシェフが腕を振るう大手町の「エヴァンタイユ(当時)」に入店。24歳で単身渡仏。「トゥールダルジャン」に勤務し、ドミニク・ブーシェ総料理長のもと26歳でソース担当に抜擢される。パリでの勤務は5年におよび、その後ホテル・ニューオータニ東京店開店に合わせ帰国。「トゥールダルジャン」での勤務はパリ・東京を合わせ12年。その後1993年に独立。東京神楽坂に「ラ・トゥーエル」をオープンしオーナーシェフとしての第一歩を踏み出す。2006年に本格フレンチの2店舗目となる「銀座 ラ トゥール」をオープンさせた。
 

「銀座の塔(ラ トゥール)として高く登りつめる」。そんな成長イメージを屋号とした。ベースはフランスの古き良きスタイルを重んじた料理。それをバロック調のクラシカルな店内で楽しめる。シェフが万遍なく市場を巡り、良い素材だけを購入し最高のフランス料理へと仕上げていく。鴨料理で世界一有名なレストラン出身だけに、鴨のロースト、グリエには格別の定評がある。また素晴らしいフランス産チーズの品揃えも楽しめる。シェフの仕事に魅了されたファンは多く、常連客のリピートも多い。

東京都中央区銀座6-8-7 交詢ビル5F

銀座 ラ トゥールHPへ

 
 
 

  「とっても美味しかった。また来ますね」。そう言って本当に次ぎも足を運んでくださるお客様がいる。それが嬉しくて、そういうお客様に支えられてこの仕事を続けることができています。でも料理の世界に足を踏み入れた当時は、こんな日が来るなんて夢にも考えていませんでした。
  厳格な父親と脇道に逸れた息子。高校を卒業する頃の私は将来のビジョンなどありませんでした。大学に行けばそのうちやりたい事が見つかる。漠然と生きていたんです。あれは自動車免許を取った3日後のこと。事故を起こし、顔面を100針以上縫う大怪我をしてしまったんです。大学進学もできず、自分がやりたいことも分からない。追い込まれた私がやったのはいろんな職業を紙に書き出すことでした。もちろん高度な知識を必要とするものは選べない。消去法で残ったのが料理人という文字でした。もともと外国に行ってみたいという憧れのようなものは持っていたため、ここではじめて「料理」と「フランス」が合体し、蜃気楼のような目標が見えてきてわけです。
  しかし父親は労働省に勤める役人で、親戚中を見渡しても商売人は一人もいません。料理のことなど相談できる人などいないわけです。「大手町のレストランにフランス帰りのシェフがいて調理場もフランス語でやっている」という情報を得て、まずはそこで腕を磨こうと飛び込みました。シェフはトータル17個の星の元で修行してきた人物。料理もフランス語も初心者の私は、そこで仕事の厳しさに驚き、へこみました。大袈裟でなく1日3回は辞めようと思った。でもそれを支えたのは、壁に貼ったフランスの写真。「崖っぷちにいるんだから進むしかないだろう?」「ここがお前の行きたい所だろう?」、そう言い聞かせ、フランスだけを見て一日一日を生きていたんです。
  背水の陣ですからとにかく頑張るしかありません。先輩が魚を一尾おろすなら自分は二尾やる。誰よりも多く仕事をし、できることを増やしていきました。仕事が認められるようになると任される事も給料も増えていきます。給料が増えることはフランスが近づいてくる、ということ。段々と仕事が面白くなっていきました。

  24歳でフランスに渡り「トゥールダルジャン」に。ここでもカルチャーショックです。160名分のオーダー、さらには個々の肉の焼き加減まで細かに書かれた伝票を覚えなければならない。分からなくなって見に行くと怒鳴られる。書かれた数字の1と7、4と9の区別がつかない…。頭の中は真っ白です。しかも月に一度スタッフ全員を集めた査定が行われ、5名はクビになっていく。生き残るには何か光るものを持ち頭角を現さないといけない。やはりここでも人以上に仕事をこなし技術を覚え、シェフと同じ味が出せるようになることに必至でした。
  そんな苦しさがあった反面、ここでは本当に多くの事を学べ充実していました。例えばシェフの服装です。なんでもないポロシャッにスラックス姿で出勤してくる時でさえ、グリーンなどの色使いやコーディネイトが抜群なんです。“人は料理を見た瞬間の0.3秒で美味しそうだと判断し、そう思われたら80%は料理人の勝ちだ”と言われています。「このシェフの味、盛り付けはすべて自身のセンスやエスプリから生まれているんだな」と実感しました。フランスの歴史、伝統を理解し品格を備えているんです。だから自分を磨くために思いきり投資しました。たまの休みには調べたレストランに行く。電車代・ホテル代・食事にワイン…。給料なんてあっという間になくなってしまいます。でもそのお店でシェフと会話し、ワインセラーを見せていただく。将来のためにできることは何でもやろうという生き方を貫きました。入店当初2000フランだった給料が帰国時点で1万2000フランに。自信になりました。
  フランス行きは特に当てがあったわけではありません。役立ったのは“居合い”の経験。武道の盛んなパリでは、地位と人脈を持つ様々な人々が道場に集まります。渡仏する際、父親から「これを持っていけ」と平安時代に作られたという真剣を受け取り、包丁6本と共に機長預かりで持っていった私がまず飛び込んだのがそんなパリの道場。そこで知り合ったパリ五区の警察署が親身になってくれ「トュールダルジャン」で職を得ることができたのです。「芸は身を助ける」といいますが、どんな経験も無駄にならない。人生とはそういうものだと思いました。

  シェフを真似る修行時代を経て独立。今度大切になってくるのがオリジナル性です。料理、ファッション、時事ネタ…。身の回りのどんな情報も仕事の糧。常に自分自身にパラボラアンテナを立て、仕事に生かす工夫をしています。お客様がそうした会話を楽しみにしてしてくださってもいます。例えば新車を見て「この美しいフォルムをデザートのシュー生地に生かせないか」などと想像する。外国のお客さまをお迎えするためにスペイン語を習い始める。美味しい料理を最高の雰囲気で味わっていただくためにできることは何だろう。常にこの原点で考えると、学び続ける以外にないと実感します。
  私は料理という仕事と出会い、常に上を目指す難しさと楽しさを知ることができました。現在の「銀座 ラ トゥール」に満足しているわけではなく、このお店がもっとお客様に喜んでいただける店にしていきたいとも思っています。そのためにいちばん大切なことは、仕事を続けること。「漠然とした目的でもいいから先を見て進め」。これはウチのスタッフにもよく言うことですが、目標を見ていれば今の辛いことは乗り越えられるし、必ず後にもっとはっきりとした目標が見えてくるのです。これは私自身の経験から言えることです。